2017年11月20日 (月)

「ブレードランナー2049」を観て(加筆修正版)

*どうしてもネタバレになってしまうので、神経質な人は映画を観る前に読まないでください。
*最初の投稿文を加筆修正しました。

 「ブレードランナー2049」を観た。映画館で映画を観るのは年に1~2回あるかないかなので、あくまで自分の中での話だが、とりあえず最近観た映画の中では良い出来の方だと思う。とは言え、やはりオリジナル(「ブレードランナー」1982年)を越えるのは難しく、「それなりに」と言うことだ。
 タルコフスキーの「ソラリス」と比べるのもなんだが、思ったほどハリウッド的な編集では無く、長回しのカットが雰囲気を出している。基本的にアクション映画なのだろうが、詩的な絵が多い。サイバーパンクの世界像は、実際にセットを作り込んで撮っているそうで、力を感じるが、しかしちょっとノスタルジックに過ぎると感じなくも無い。

 それにしても、やはり暗い物語だ。展望を感じさせない。オリジナルのいわゆる劇場公開版にだけは最後に明るい逃亡シーンがあったが、それはおそらく監督のイメージでは無かった。そうした絶望的で救いの無い世界観が引き継がれたと言っても良い。
 今回の映画でひとつ疑問に思ったのはラストシーンだ。必要だったのか? シナリオ的には伏線の回収=オチというか謎解きの意味があるので必要性はあるのかもしれないが。(補足1)うがって考えれば続編への布石なのかもしれない。
 なお、YouTubeで事前に公開されているプレストーリーのショートムービーは観た方が良い。映画を観る前に観ればストーリーを理解する助けになるし、映画の後に観れば謎解き的に楽しめると思う。

 さて、それにしても問題になるのはこの映画のテーマだ。
 これは仕方ない問題でもあるのだが、基本的にはオリジナルのテーマをなぞったというか、深化させたもので、その意味では新しいテーマではない。それはつまり、オリジナルとは何か? コピーとは何か? 自分とは何か?、そして人間性とは何か、正義とは何かということだろう。

 変な言い方だが、この映画には悪人が出て来ない。敵役はいるがそれは個人的な悪意を持つ人物では無い。登場人物はそれぞれの正義を背負って、それを実現させようとしているのだ。
 体制側にいる人物は現状の世界の崩壊を防ぐためにこれまでの秩序を維持しようとし、改革派側の人物は新しい価値観と新しい社会システム、新しい秩序を作ることこそが人類を救うと信じ、虐げられているグループは現状を破壊する武装解放闘争を志向している。それは相互に非和解的な立場であり、ギリギリの存亡を賭けた闘いの中で、それぞれが自分たちの目的のために手段を選んでおられず、非情で暴力的な抗争へ向かっていくのである。
 それは別の言い方をすれば、差別と排除の論理である。人間は繁栄のためにレプリカントや貧民を奴隷として酷使しようとし、新型レプリカントはその人間社会の中で自分を位置づけ、生き残るために、旧型のレプリカントを問答無用で抹殺したり、果てには対立勢力を襲撃し、殺人や拉致なども容赦なく遂行する。プレストーリーのひとつである渡辺信一郎監督によるアニメ「ブレードランナー ブラックアウト 2022」でも描かれるように、8型レプリカントは自分たちが生き延びるために人間を殺戮してでも、いわばステロタイプの革命戦争とも言える解放闘争を実行する。この映画の登場人物達は皆、誰かを敵と味方に分け、敵を徹底的に排除しようとしているのである。
 言うまでもないが付け加えておけば、その構造は現代世界における人類が抱えている問題そのものであることが明らかだ。新型レプリカントが旧型レプリカントを探し出して抹殺する姿は、常に「私(たち)」との違いを見つけては排除したがる現代の我々の社会そのものと言っても良い。
 この映画にはこうした問題への解答は無い。この作品のメッセージは、オリジナルでレプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)がハリソン・フォード演じるデッカードの命を最後に助けるというヒューマニズムの希望を見せたメッセージとは違う。むしろ、登場人物達が「人間」性を喪失する物語の中で、唯一ヒューマニスティックな登場「人物」が実態を持たないAI(補足2)であるという設定が、この映画のひとつのメッセージなのかもしれない。それだけ現代の闇が深いと言うことか。

 オリジナルの公開はまさに冷戦時代の終盤にあたり、ヨーロッパを基点とした実戦型核ミサイルの配備に反対する世界的な大闘争が巻き起こる一方、ソ連はアフガニスタンに侵攻し「終わりの始まり」に突入していた。それは暗い未来を感じさせつつ、しかし同時に第二次大戦後の民主主義と平和主義、人権思想の拡大と高まりはいまだ衰えず、人類の文化は前進していくのだという確信を多くの人々が持っている時代だった。オリジナルはまさにこうした意識を反映した映画だったと言えよう。
 それに対して「2049」は、原理主義とナショナリズム、ヘイトと排除が広がる現代を表現している。どこかで近代の文化は折り返し、復古的な権力志向の時代へと逆戻りしてしまった。独裁と専制と差別と排除と暴力と戦争が公然と肯定される社会になりつつある。
 そこにおそらく、この二つの映画の絶望の意味の違いがあるのだ。

 とは言え、この物語の中で中軸に描かれているのは社会問題では無く、レプリカントである主人公Kの姿を通じたアイデンティティの問題である。当初は自分というものを持たず、ただ従属するだけの存在であり、わずかに自分を取り戻す瞬間がホログラムとの会話の時間だけ、それも上司からの呼び出しがあれば即座に中断するという、いわば「社畜」であるのだが、それがストーリーの展開とともに変化していく。
 つまりこの物語はKの「自分探し」の物語なのである。しかし、Kが探そうとする本物の自分とは何なのだろうか。ひとりの人間が本当に純粋なオリジナルであることなど、実はあり得ない。「人間」が「生物学的なヒト」と区別されるのは社会と文化の中に生まれ育つからであって、それはつまりあらゆることを真似て(コピーして)自分が形成されると言うことなのである。ちなみに「まなぶ」という言葉は「まねる」を語源としていると言う。
 重要なことは、そのコピーされた巨大な基盤の上に、ほんの少しでもオリジナルな何かを加えられるのかどうかということでしかない。(補足3)そして、おそらくこの映画は主人公がそれを獲得するかどうかということを描こうとしているのだろう。

 ただ、最後にもうひとつの疑問は残る。作品世界の人々はそれぞれの属する集団によって異なった正義を持ち、そのことによって人間性を喪失していく。一方でKはアイデンティティを求めて自己に拘泥することを通じて、逆に「人間的」になっていく。しかしだからと言って単純に自分に拘泥することが正解だと言ってよいのだろうか? それは結局は社会との関係性と自分を遮断し、自分だけの価値観に引きこもることにしかならないのではないのか。それがもう一度、この映画のラストシーンへの疑問としてよみがえってくるのだ。(補足4)


★補足★

*以下は完全にネタバレになります。

補足1
 デッカードと娘(ステリン)が会うことは、作品世界内においては非常に危険なことだ。デッカード自らが娘を守るために自分を消したと述べている。この作品で描かれるように体制側もウォレス側も非常に強力な監視・情報収集能力を持っている以上、ステリンの素性は早晩知られてしまうだろう。ステリンが本当に免疫不全である場合、彼女をどこかに逃がすことはほとんど不可能で、いずれにせよ本作のラストシーンから推測する限り、彼女が殺されることはほぼ確定的である。
 それが分かっているはずなのに、Kもデッカードもステリンの研究所を訪問するのは、どうも納得できない。もちろん、別に隠された設定があるのかもしれないが。
 ぼくから見ると、これはオリジナルの劇場公開版の逃亡するラストシーンと同じように不必要なシーンだったのではないかと思える。

補足2
 ホログラフィと呼ばれるジョイのこと。
 それではなぜジョイが一番ヒューマニスティックなのか? ひとつには彼女が献身的であるという点が挙げられるが、実はこの映画の登場人物は皆献身的である。それぞれが自分の立場に忠実で死をも恐れない。違っているのは、ジョイの「正義」がKという個人に対する「愛」という個人的な立場性であることだけだ。本記事内で指摘しているように、それは社会や組織的な責任を持つ立場と比べた場合にどういう意味を持つのか、ということは問題になると思う。

補足3
 Kは上司に隠しながら、反逆とも言えるような形で本物の自分を探し出すのだが、結局はそれも嘘で、偽物であることを知る。空虚な自分から、一度は実態を得て(と実感を得て)、しかし更に大きな空虚に突き落とされる。
 一方のジョイは初めから何も無い空虚の中から、いつの間にか「愛」と「献身」という中身を得る。ただし、それはあくまでプログラミング上の、いわば幻想上の、かつステロタイプな「人間」風の反応であるだけかもしれない。しかし、他者の内部に入り込むことが出来ない以上、外面的な対応こそが真の実体であると見ざるを得ない。ジョイは何らかの「オリジナルな何か」を獲得したのである。
 そしてKも、最後に誰の命令でも無くデッカードを救い出し、娘と会わせるというヒューマニスティックな行動をとることで「オリジナルな何か」を得たことを証明する。ラストシーンの必要性は、そのことを示すためであると言えるかもしれない。

補足4
 Kは社会や組織などの都合や、これから先の展開などを考えずに、デッカードを娘と引き合わせた。そして自分自身はそのまま死んでいくことで、「やりきった俺」として自己完結してしまう。Kにとってはハッピーエンドかもしれないが、彼の選択が本当に正しかったかどうかは、ぼくには大きな疑問である。

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2017年5月23日 (火)

ツイッター始めました

 今更だけど、ツイッターを始めた。

https://twitter.com/muneo_yayoi

 今まで、別に必要性を感じていなかったのだけれど、最近ちょっときっかけがあったので、つい手を出してしまった。もっともブログも実質的に休止しているわけだし、そんなに発信することもないような気がするが。

 実はこの一年間、地元の自治会で下っ端役員をやらされていた。それに加えて、いよいよ母の老化も進んできて、今まで以上に母に関わる必要があり、なかなか精神的にいろいろなことをやることができなかった。
 と言うより、正直に言って、あの東日本の大震災からあと、ずっと何かがブレーキになって、以前のようにやることができなくなっていた。昨年の自治会での仕事が、むしろこの五年の区切りになったかもしれない。
 とは言え、自治会の方も母の方も、まだこれからますます手がかかるようになっていくと思うので、何かがやれるというレベルにはならないだろうが、気が向いた時に、気楽に発信ができたらと思っている。

 で、ひさしぶりにここに来たら、ココログがアップロード制限を緩和したというお知らせがあった。
 この1M制限があって、なかなか音声ファイルを上げるのが大変だったのだが、これなら無理な編集をせずにポッドキャストをやれるかも…なんて一瞬思ったが、どんなもんだかねー。
 実を言うと、機材だけは新しく買ってたりして、ポッドキャストに決別した気はないのだが。

 久しぶりに普通のくだけた文章を打ってみたら、なんだか書きにくい。こういうのも、さび付くものなんだな。
 と言うことで、ツイッターの方もよろしく。

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2016年8月 8日 (月)

『シン・ゴジラ』を観て

 庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』を観た。ネット上での賛否は分かれているが、秀作であることは間違いない。ぼくはゴジラ映画を全部見たわけでは無いし、庵野作品はテレビ放映版の『エヴァンゲリオン』と劇場版の『シト新生』『Air/まごころを、君に』を観たくらいで(たぶん『ナディア』も最後まで観ていなかったと思う)、映画評論家的に分析することはできないが、ゴジラ映画としては1954年の第一作に次ぐ出来では無いかと、個人的には思う。もっともマイベスト映画かと問われればちょっと違うのだけれど。
 以下に感想を書くが、いわゆる「ネタバレ」になるので、未見の人は読まない方が良い。正直言ってたいしてネタバレ的な要素の無い映画だと思うのだが、映画パンフレットには「ネタバレするから映画を観てから読んで」とわざわざ封印までしてあるので、まあここは製作者の意図を尊重したい。

  *  *  *

 さて、分かりづらいという感想もあるようだが、別に分かりづらい映画では無い。偽科学的な設定の部分に難解な点もあるが、そこは仕方ないところだろう。むしろドキュメンタリータッチで、複雑な転換も無く、ストーリー自体はかなり単純だ。
 もちろん、この映画をどう解釈するのかということになれば、難しいかもしれない。単純なドキュメンタリータッチということは、主観がどこにあるのか隠されているとも言えるので、映画の真の意図を探るとなると、考えて解釈しなくてはならなくなる。そして優れた映画がどれもそうであるように、観る者の視点、立場によって読み方の幅は大きくなるものだ。ここでは、ぼくの観点から読み取ったことを書いていきたい。

 まず、この映画を「ゴジラ映画」という歴史性から評価するなら、ゴジラの位置づけを第一作から忠実に、しかも現代映画として耐えうるように解釈しているところが良いと思う。
 今回のゴジラは核廃棄物を食べたことによって体質変化を起こし、放射能をまき散らす巨大な怪物になったとされているが、それは第一作の水爆実験によって目覚めて人類を襲ったという設定をなぞっているし、「ゴジラ」という名称が大島(第一作では大戸島)の伝説に基づくという点まで忠実に再現している。当然と言うべきかも知れないが「反核」というゴジラ映画に通底しているテーマも真正直に引き継いでいるが、この点は後でもう一度検討してみよう。
 さらに、怪獣映画の真価は、怪獣という存在をどういうものとして解釈し、またそれをどのように具現化するかにかかっている。『シン・ゴジラ』はその点を真摯に追求していて、単なる旧作の「なぞり」で終わっているわけではない。
 今回のゴジラには「外部からのエネルギーに頼らず環境に適応して変態し続ける完全生物」という解釈が加えられた。自己完結した完全生物という位置づけは不気味だ。一般的に地球上の生命体は地球環境=生態系によって初めて存立しうる。生態系は複雑な相互連関によって成り立っているから、そのうちの一つのピースが欠けるだけで、生態系全体が崩壊する危険さえある。だからエコロジストは、我々の生活に一見関係ないように見える生物種であっても、それを必死で守りぬこうとする。ヒトもまた生態系の一環に組み込まれているのであり、生態系の小さなバランスの揺らぎのために絶滅してしまうかも知れないからだ。
 ところが自己完結した完全生物には、もはや生態系は必要ない。全てを破壊し尽くしても自らの生存に何も問題ない。そこでまたその環境に適応すれば良いのだから。今回のゴジラの不気味さはそうした意味で、他者と完全に断絶した存在が出現したら、それ以外の存在は全て滅ぼされてしまう危険性があるという寓意にある。ここでイスラム原理主義を引き合いに出すのが妥当かどうかは分からないが、そうした自己完結的な勢力が21世紀に出現していることもまた事実である。
 しかし、完全生物のゴジラも、実は自らの完全性を喜んでいるわけでは無いらしい。ゴジラは地上に上がるとエラから激しく出血し、巨大化すると体中に赤い傷のような線が現れる。苦痛に暴れながら、彼(彼女)は孤独に、ただ自分への攻撃に反撃するだけのために生き続けるのである。だが画面からはあまりにも巨大かつ強大で意思疎通不能の化け物に、同情できるような要素はほとんど感じられない。それは彼(彼女)がまさに神だからなのかもしれないし、(現代人があえて目をそらす)完全なる絶望の具現化だからかもしれない。
 映像は素晴らしい。カメラワークは徹底して人間の視点である。実際にそこでそれが起きた時、人間の目、もしくは報道のカメラから見えるであろう画像にこだわって作られている。ゴジラが熱線で東京のビル群を破壊しまくる映像も美しい(ちなみに東京大空襲を経験したぼくの母は、空襲の赤い炎に照らされた真っ白なB29爆撃機がとてもきれいだったと言っている)。
 ゴジラの造形も気持ち悪く、恐ろしい。まぶたの無い目、無意味に乱れて生える鋭い歯。人間から一番遠いところにいる存在であることをよく表現していると思う。

 もう一つ、『シン・ゴジラ』を評価するなら、これが意識的に反ハリウッド映画として作られている点だろう。良く知られたことであるが、現代のアメリカ映画は完全にパターンがセオリー化しており、シナリオの展開は分数まで決められていると言う。このために、現在の米国のエンターテインメント映画は、何を見ても同じような感じがしてしまう。
 これに対して庵野監督は意図的にハリウッド的要素を退けていると思われる。この映画にはロマンスもエロチシズムもスーパーヒーローも無い。監督の反骨精神と気概を感じる。しかも怪獣映画としては驚異的なことに、毒薬を経口投与して退治するという前代未聞のシナリオになっている。地味と言うにも地味すぎる。あの怪獣のすさまじい破壊シーンに対してこの終幕なのだ。もちろんここには、巨大な力に対する非力な者たちの知恵と団結による勝利という意味が込められているのだろうけれど、ハリウッド的なものに対するアンチテーゼだと言っても良いだろう。
 冒頭でこの映画がドキュメンタリータッチだと述べたが、それはロマンス、エロ、スーパーヒーロー要素抜きにエンタテインメント映画を成立させる手法でもある。その代わりになっているのが膨大な群像劇という形式だ。誰かにじっくり焦点を当てて描くことが出来ないほど、大量の登場人物が出てくる。何人もの主役級の役者を数秒ずつ使うという大変贅沢な作りだ。話が逸れるがこれこそがゴジラの力なのだろう。『トラ・トラ・トラ』とか『史上最大の作戦』とか、昔で言うオールスター映画の味がする。
 さて、それではいったいどのようなドキュメンタリーなのかと言えば、これは政治映画と言って良いだろう。政治主張映画では無い。ようするに政治現場のフェイク・ドキュメンタリーなのだ。これはどういう意味か。つまり庵野監督のイメージするリアリティがここにあると言うことであろう。本当に現実に怪獣が東京に出現したら何が起こるのか。誰がどういう対応をするのか。それはおそらく政府、行政が対応するのだろう。そしてそこにはひどい混乱が起こるだろう。それをシミュレーションして映像化する。確かにリアリティだ。
 これを精緻に描こうとすれば、政府は現実には巨大なシステムだから、大きな群像劇にならざるを得ない。もしこの映画をこれ以上広げたら、収拾がつかなくなって訳がわからなくなっていただろう。結果的に(か、意図的にか)出てくるのは怪獣の破壊シーンと行政府内部の会議室・執務室シーンだけだと言って良い映画になった。
 いくつか指摘できる点がある。最大の注目点はここには悪人が出て来ないということだ。愚鈍な者や自己保身的な者はいるが、エンタメ映画によくあるストーリーを左右するような典型的な悪漢は存在しない。人々はただただゴジラという絶望的な災害に翻弄されるだけである。悪人がいないということは、逆説的に正義の味方もいないし正義も無いということだ。さらに言えば正解も無い。最終的に主人公の青年政治家(矢口蘭堂=内閣官房副長官)グループの作戦がとりあえず成功し、ゴジラは凍りついて活動を止めるのだが、果たして死までも超越しているとさえ言われる完全生命体の動きを最終的に封殺したと言えるのか。氷は溶けないのか? 氷が溶けたらまたゴジラは動き出すのではないのか。その時は再び米軍主導の核攻撃作戦が発動されるのではないのか…。観客にはそんな疑問が残っただろう。このゴジラ退治法は必ずしも正解ではないかも知れないのだ。もしかしたら、これは福島原発事故で汚染水対策として決定された凍土壁の比喩なのかも知れない。周知の通り、初めから疑問視されていたように、福島原発の凍土壁はどこまで行ってもうまくいかず、ついに全てを凍結させることは不可能と宣言されるまでになってしまった。

 繰り返しになるが、庵野監督がこの『シン・ゴジラ』を政府内部を描く映画として作ったのは、彼のリアリズムに従ってのことだろう。普通のエンタメ映画のように(それは第一作もそうなのだが)、一般庶民であるひとりの人物が、突然奇跡のような解決策を見つけ出して敵をやっつけるというストーリーはあまりにも荒唐無稽である。だから庵野は政治映画としてゴジラを描いたのだが、それはまた当然ながら「上から」の視点の映画になった。しかしそのことは同時にこの映画自体の「危険性」を生むことにもなっている。
 ぼくはこの政府内部を舞台とする作り方が、庵野のある種の保守性というか、複雑な思い(コンプレックス)に大きく規定されていると思う。複雑な思いというのは、庵野が師とも言える『風の谷のナウシカ』の宮崎駿監督に対する敬意と反発、つまり絶対的権力に対する憧憬と嫌悪のない交ぜの意識を持ち続けているのではないのかと言うことだ。庵野にとって権力は桎梏ではないのだろう。別の言い方をすれば、彼は時として場違いな楽天性をさらけ出す。政府と政治家は基本的に国民、国家のために仕事をする、という教科書的な観念が、リアリズムで描くなら政治は善意として行われるはずだという視点を生んでいるのである。
 この映画において議会や法律は有事の際の桎梏になるという描かれ方をされている。事実、国会や野党政治家、各省庁内部は描かれない。ぼくが気になったのは、ほんの数秒だが、国会前にデモ隊が押し寄せているようなカットがちらりと出てくるところだ。どうやらゴジラを退治しろと政府に要求しているように見える。映像自体はおそらく反原発か反安保法のデモのニュースの流用だろうが、そもそも大災害の最中にこのようなデモが起きるとは考えづらい。これは明らかに災害対応の足を引っぱる行為であろうし、「愚かな民衆」というイメージを強調するカットとしか思えない。不用意というか不自然なカットである。もう少し言えば、反原発や反安保法運動が、政府が強行しようとする政策を止めようとするものであったのに対して、ゴジラ撃退要求は「何もしない政府」に軍事力発動(?)を求めるもので、そのベクトルは全く逆である。あえて言えば、前者が左派的であるとすれば、後者は右派的だ。
 この映画では、政府は国民、国家のために最善を尽くす。それに水を差す者、理解しない者は愚かである。もちろん政府内部にも賢明な者とそうでない者がいて確執があるが、賢明な指導者は反対があっても自分を押し通し、事態を最良の方向に向かわせなくてはならない。残念ではあるが、こうした描き方、視点を穿っていくと、行き着く先には民主主義の否定、独裁者の肯定という思想的な危険性が見えたりもする。好意的に見るならば、こうした上からのリアリズムは、庵野の右翼的感性と言うよりも、健全な(もしくは凡庸な)政治思想の表れと言うべきなのかもしれないが。

 しかしもちろん庵野のようなリアリズムとはまた違ったリアリズムもあるに違いない。上からの視点である庵野に対して、例えば『パトレイバー』の押井守監督であればどんな映画を撮るだろうと考えてしまう。押井であれば下から、もしくは外れ者の視点から、非ハリウッド的なリアリズム映画を撮ることも出来るのではないだろうか。今回のシナリオでは謎のキーマンとして描かれる牧教授という老人がいる。彼は実際には登場せず、故岡本喜八監督の肖像写真としてのみ表示されるのだが、この牧教授がなぜゴジラの出現ポイントで行方不明になったのか、そして彼の残した遺書の意味は何なのか、この点は最後まで明確に説明されない。一方主人公は、癖のありそうなフリージャーナリストに依頼して秘密裏に牧の動向を探らせる。このエピソードは全体から見るとわずか2カットしかなく、しかも全体の流れから言って唐突であり、余り必然性を感じさせない。もちろん庵野には意図があってこのエピソードを挿入しているのだろうが、これが押井ならここを一つの物語の軸として「下から」見るリアリズムを構築することが出来たのではと思ったりする。もちろんそのように、消えた老人を大災害に破壊されつつある大都会の中で追うというストーリーになっていたら、映画はもっと難解になっていただろうが。

 『シン・ゴジラ』は政治主張と言うより、庵野監督なりのリアリズムとして描かれたというのがぼくの見解だが、しかしそれでもなお、やはりこの映画の中に政治的主張や政治思想が存在しないわけでは無い。
 誰が見ても明らかなのは、前述したとおり「反核」主義である。それは第一作のテーマであり、基本的にゴジラ映画のDNAとして引き継がれてきたものだ。主人公は米国主導の核攻撃作戦を食い止めるべく最後まで粘り続ける。なお、付け加えれば、ギャレス・エドワーズ監督版のゴジラも含めて、2010年代のゴジラ映画はどうしても3.11のメタファーにならざるを得ない。当然そこには放射能汚染問題も入り込んでくる。第一作が戦争と原爆のリアリティに裏打ちされていたとすれば、現代のゴジラは東日本大震災と原発事故のリアリティの上に存在するのである。
 ここまではある意味で当然だとして、そこからもう少し踏み込めば、この映画の国際感覚は、反米とは言わないまでも米国一極主義外交への批判であり、中露への不信感であり、親欧的意識である。微笑ましい(?)のは、と言いながら結局最後には米国民は日本人を信頼し協力してくれるはずだという楽観主義である。現実はそんなに甘いものでは無いのだが。トランプ旋風の中で作られていればもっと違っていただろうか。劇中で主人公は旧日本軍の楽観主義的思想が日本の敗戦を招いたと批判しているが、庵野監督の楽観もなかなかのものだ。
 本作の中で自衛隊は無力ではあるが勇敢で忠実で献身的な存在として描かれている。そのことは3.11に象徴される災害救助隊としての自衛隊のイメージに負うところが大きいかも知れない。この映画においては当然ではあるが、海外派兵を行う軍隊としての自衛隊ではなく、本来の「自衛」隊として描かれている。健全ではある。
 自衛隊の作戦失敗を受け、日米安保に基づく米軍B2爆撃機によるゴジラ攻撃が行われるが、これも瞬間的には効果を発揮するものの即座に全滅させられる。米国はそれ以上の反撃を止めてあっさりと核攻撃戦略へと切り替えてしまう。米国がなぜゴジラへの核攻撃にこだわるのかと言えば、無限に変身を続けるゴジラがいつ羽を生やして米国本土に飛来するかもしれないからだ。米本土において核を使うより遠く離れた日本で核を使う方が良いという判断である。中露も自分たちに都合の良いゴジラの国際管理を主張してくる。主要閣僚をいっぺんに失い、経済的にもどん底に落ち込んだ日本は、各国の意図に翻弄されるしかない。
 第一作のゴジラが不安の中にも、ともかくもゴジラという怪物を骨まで溶かして葬り去るという希望的ラストであったのに対し、『シン・ゴジラ』はスタイリッシュな都会的な人物と風景の背景にいつまでもゴジラが屹立し続ける文字通り冷たい終わり方をした。主人公もまた、「指導者が失われても代わりはいる」、「犠牲者を出した責任を取って辞める」と言いながら、しかし結局のところ実際には政治家を辞めるつもりはないし、おそらく何かを変えるよりも、何かを守り継続することを自らの使命と考える指導者になっていくのだろう。ゴジラ=核の恐怖が何度も繰り返されるだろうという思想的な警告を発した第一作のラストとは大きく違う。戦争の悲劇を主体的な反省として受け止めた第一作と、繁栄を外部の力でむりやり奪われたと被害者意識で考える『シン・ゴジラ』のレベルの違いであろう。いずれにせよ、庵野が意図しているかどうかはともかく、こうした部分では庵野のリアリティは確かに21世紀の日本を表現してはいる。

 『シン・ゴジラ』の感想を述べてきたが、それでも最後まで解釈できない「謎」もある。前述した牧教授の足跡もそのひとつだ。おそらく彼はゴジラの上陸を知っていたはずだ。彼はなぜそれを知っていたのか。彼は何をしようとしたのか。そもそもなぜゴジラは東京に上陸したのか。これは最大の謎である。生物は基本的に保守的である。自己の生存と種の存続に対する危険が無い限り、自分の生存環境を変えることはしない。同じ場所で同じ生活を続ける、それが生物の原則だ。だからシーラカンスのような生物もいる。もちろん環境が変化したり、生存競争に敗れそうになったりした場合には、新しい生活環境へ移動したり自らを進化させたりする。しかし、完全生物であるゴジラには生物的危機が存在しない。餌をとる必要さえない。逆説的だが完全生物はすでに生物ではない。有機的な永久機関とも言うべきものである。つまりゴジラには生息環境を変える必然も、そもそも移動・行動する必然さえない。そのゴジラがなぜ陸上にやって来なければならないのか。これは物語の根幹に関わる大きな謎なのだ。

 最後に牧教授に関わる別の小さな謎をひとつ。アメリカ現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は折り鶴を折って原爆資料館に残していった。折り鶴は反核の象徴である。映画では、牧教授が残した幾何学的な図面を立体的に折り上げることによってその意味が明らかになるというシーンがある。牧教授の図面は折り紙だったのだろうか。「折る」という字と「祈る」という字はとてもよく似ている。そのことを理解できるのは日本人だけかも知れないが。

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2015年11月 2日 (月)

松来未祐さん

若い人が亡くなるのは嫌だな。
これから過去の作品を見返したときに悲しくなる。

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2015年9月19日 (土)

敗北の朝、何度目かの

体調が悪い。
この二週間ほどずっと悪いのだが、今朝は特に気持ちが悪い。
戦争法成立による精神的なものもあるかも知れない。
また負けたという敗北感が強い。
もちろん最初から勝目は薄かった。

ぼくは人生の中で勝利の記憶がほとんど無い。
負け続けの人生である。
もちろん、下層に生まれて下層に生きる反体制派にとって、それは当然の宿命だ。
あの有名な柔道家の言葉を借りれば「弱いから負ける」、それだけである。

強くなりたい。
しかしどうしたら強くなれるのか、というより、そもそもぼくが獲得すべき強さとは一体何なのか、それさえも未だにわからない。

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2015年9月15日 (火)

国会前に行きたい

戦争法案が強硬可決されそうである。
なんとしても止めたい。
多くの人が国会前に集まっている。

だが
この10日ほど体調が悪い。
熱が出たり、咳が止まらなかったり。
その上、夏から母の体調も悪い。
天候も下り坂だ。

でも国会前に行きたい。
もちろん、行きたい訳ではない。
行かなくてはならないという気持ちである。

どうしようか。

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2015年8月 6日 (木)

2015年夏期アニメ

 2015年夏期のアニメも、そろそろ折り返し。最後まで見ないと評価できないものもありそうなので、何とも言えないが、今のところ気に入って見ている作品をいくつか紹介してみる。

 「のんのんびより りぴーと」は、「のんのんびより」の第二期だが、なぜか第一期と作品上の時期が重なっている。第一期のエピソードの間に入るようなエピソードが描かれていて、こういう構成は目新しい。まあ、小学生の話だから、あまり物語が速く進んでしまうと話が成り立たなくなるのかもしれない。

 「六花の勇者」はラノベのアニメ化だが、ちょっとひねったヒロイックファンタジーである。なかなか敵である魔物がいるところまで行き着かない。というよりこれは勇者同士の関係性の物語であり、一種のミステリーものでもある。その意味では本格的ヒロイックファンタジーを期待すると違うかもしれない。ただ美術や音楽は大変美しい。

 「ワカコ酒」はマンガ原作のグルメ系アニメだが、一話5分で、ほぼワンシーンで終わる。ポリシーを持って一人酒を楽しむ女性の話だが、なかなか趣があってよい。

 「実は私は」もマンガ原作もの。いわゆる人外ラブコメ。変なジャンルのような気もするが、今どきごく普通のアニメではある。別に何がということのない、内容の無いラブコメだが、実はそこがいい。何も考えないで見られて、だからと言ってつまらなくもない、そういうアニメは案外少ないのだ。

 さて今期もっとも衝撃的だったのは「がっこうぐらし」だ。一切何も知らずに見たので驚いた。だからあえて何も書かないでおこう。ちなみにぼくは以前から水瀬いのりのファン。「ご注文はうさぎですか」とか「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」、前述の「実は私は」など数多く準主人公的な役をやっているのだが、実は主役はこれが初めてという話もある。

 以下は直接関係ないが、「がっこうぐらし」関連と言うことで。

「は・ん・せ・ん・し・た・い (「がっこうぐらし」OP反戦替歌)」

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2015年7月19日 (日)

国会前に行ってきた

 戦争法案の衆院通過には行けなかったが、昨日は国会前に行った。
 作家の澤地久枝氏が中心になって呼びかけた全国一斉行動の中央集会だ。これは俳人である金子兜太氏が書いた「アベ政治を許さない!!」というポスターを7月18日午後1時に全国で一斉に掲げるという運動だ。

hisaesawachi
https://sites.google.com/site/hisaesawachi/home

反「安保」:拡大 全国で一斉抗議「アベ政治を許さない」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/graph/2015/07/19/20150719k0000m040033000c/001.html

 マスコミの扱いは小さいが、この運動には大きな意味があると思う。特定の政策ではなく、安倍政権打倒そのものを掲げた非政党系(無党派)市民による大規模な運動が本格的に始まったのである。
 「I am not 安倍」を掲げた元官僚の古賀茂明氏がメディアから完全排除されているが、いよいよこうした文化人・インテリたちが反安倍政権の主張を隠すことなく発言し始めた。
 もちろんこうしたことの背景には、戦争法案反対で連日国会前で闘ったSEALDsなどの若者の影響も強いと思う。若者が全力でがんばっているのに年寄りが家に引っ込んでいて良いのかという気持ちを持った人も多いだろう。

 世論調査ではいよいよ政権支持率が30パーセント台、不支持率が50パーセント台に入った。安倍さんは新国立競技場問題でゼロベース見直しを打ち出し、政権支持率浮上を図っているが、そもそも責任論を抜きにしたパフォーマンスがどのくらい通用するのものか。
 舛添都知事にもツイッターで次のように批判されている。

「安倍総理は、1ヶ月前から見直しを検討したと言うが、それなら6月29日になぜ政府案を決定したのか?」
「6月29日、下村大臣は(中略)「最終案」を公表した。その後の政府、JSC、組織委員会関係者の発言を検証するとよい。「変更ない」、「国際信用を傷つける」、「最善の案」などだ。主張の整合性よりも内閣支持率が優先か?」
「これだけ大きな政策転換をするのならば、大失策の責任者の更迭は当然である」

 舛添氏の発言にも、自分の支持率をどうにかして維持しようとする苦しさを感じざるを得ないが、言っていることはもっともだ。

 安倍氏はIOC総会で福島原発はコントロールされていると嘘をついたが、その責任もとっていない。政府や与党内の政治とカネの問題も続発したのにその責任もとっていない。安倍氏の狡猾と言うか厚顔のところは、自分に責任があると明言しながら、しかし実際には何一つ責任を取らないところだ。もはや「責任」という言葉自体に何の責任も存在してないのである。
 近代主義の基本は社会のシステムを全員が遵守するというところにある。システムは近代社会を容認する以上、主義主張や思想にかかわらず、変えてはならない原則に支えられている。それは社会システムは責任の体系だということである。人々はみな社会のいずれかのパートを受け持ち、そのパートに責任を持つ。そのことがあるからこそはじめて平等で民主主義的な社会が成立するのだ。もちろん人々はそれぞれ意味も責任も全く違うパートを担当しているのだけれど、人々がその責任を放棄したり無視したりし始めたら社会は成り立たなくなる。
 日本の政治システムの最長点にいる総理大臣が、自分の言動や立場に責任を取らなくなったら、それはまさに社会の腐敗であり、民主主義の終焉、独裁政治でしか無くなる。

 「民意」を形にする必要がある。自民党幹部たちは「抗議はたいしたことがない」「昔はもっとすごかった」というようなことを言っている。国民世論は全くなめられているのだ。意見の違いを越えて、ともかく今は安倍政権打倒のうねりを作るべき時だと思う。

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2015年7月15日 (水)

戦争法案絶対反対!

 梅雨に猛暑に台風。そのせいなのかどうかわからないが、この一週間ほど体調が悪い。最初はめまいだった。正確に言うと平衡感覚がおかしくなって、頭がふらふらする感じ。その次が腰痛。そこから背中の筋肉痛になり、微熱が出た。このところ毎日、ロキソニンやアスピリンを飲んでしのいでいる。
 症状は軽いので買い物など日常生活に大きな問題はないが、この天候もあるので無理をするのが恐い。本当なら国会に行くべき時だと思うのだが、母も高齢だし、何かあると困るので自粛している。
 ただ少なくともブログでは言っておく。今日の戦争法案(安保関連法案)の委員会採決は許し難い。安倍政権は、原発でも、戦争法案でも、沖縄の基地建設でも、国民の声を無視して独裁的政治で突っ走っている。もうこんな政権は打倒しなくてはいけない。民主主義を尊重すべき理念ではなく、ただ自分の都合のための手段にするような者は、右翼であろうが左翼であろうが政治家にしておいてはいけないのだ。
 いまだにマスコミは「慎重な審議が必要」などと言い、安倍総理自身が「国民の理解が不十分」などと言っているが、それは違う。議論は尽くされ、人々は十分理解している。これは通してはダメな法律なのだと。廃案にしなければならないのだと。いや、もう廃案だけではない。安倍氏を首相の座から引きずり下ろさねばならない。
 多くの困難の中、連日抗議行動に参加されている皆さんに、心よりの敬意と共感を表明したい。

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2015年5月22日 (金)

98%の人々を驚かすシンプルなテスト

 こんなのが流行っているのか?

簡単な足し算で驚きの結末が!!98%の人々を驚かすシンプルなテスト。あとの2%は「 変人」の可能性あり。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52162097.html

 これっていったい?
 本当にその結果になる人がいるの? みんな釣りで言ってるんじゃないの? そういう意味で気味が悪い。
 もちろんぼくは全然違う答えになった。やはり変人なのか?
 ぼくの答えは下記のものだった…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「黄色いペンチ」

 うーん…???

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