映画・テレビ

2017年11月20日 (月)

「ブレードランナー2049」を観て(加筆修正版)

*どうしてもネタバレになってしまうので、神経質な人は映画を観る前に読まないでください。
*最初の投稿文を加筆修正しました。

 「ブレードランナー2049」を観た。映画館で映画を観るのは年に1~2回あるかないかなので、あくまで自分の中での話だが、とりあえず最近観た映画の中では良い出来の方だと思う。とは言え、やはりオリジナル(「ブレードランナー」1982年)を越えるのは難しく、「それなりに」と言うことだ。
 タルコフスキーの「ソラリス」と比べるのもなんだが、思ったほどハリウッド的な編集では無く、長回しのカットが雰囲気を出している。基本的にアクション映画なのだろうが、詩的な絵が多い。サイバーパンクの世界像は、実際にセットを作り込んで撮っているそうで、力を感じるが、しかしちょっとノスタルジックに過ぎると感じなくも無い。

 それにしても、やはり暗い物語だ。展望を感じさせない。オリジナルのいわゆる劇場公開版にだけは最後に明るい逃亡シーンがあったが、それはおそらく監督のイメージでは無かった。そうした絶望的で救いの無い世界観が引き継がれたと言っても良い。
 今回の映画でひとつ疑問に思ったのはラストシーンだ。必要だったのか? シナリオ的には伏線の回収=オチというか謎解きの意味があるので必要性はあるのかもしれないが。(補足1)うがって考えれば続編への布石なのかもしれない。
 なお、YouTubeで事前に公開されているプレストーリーのショートムービーは観た方が良い。映画を観る前に観ればストーリーを理解する助けになるし、映画の後に観れば謎解き的に楽しめると思う。

 さて、それにしても問題になるのはこの映画のテーマだ。
 これは仕方ない問題でもあるのだが、基本的にはオリジナルのテーマをなぞったというか、深化させたもので、その意味では新しいテーマではない。それはつまり、オリジナルとは何か? コピーとは何か? 自分とは何か?、そして人間性とは何か、正義とは何かということだろう。

 変な言い方だが、この映画には悪人が出て来ない。敵役はいるがそれは個人的な悪意を持つ人物では無い。登場人物はそれぞれの正義を背負って、それを実現させようとしているのだ。
 体制側にいる人物は現状の世界の崩壊を防ぐためにこれまでの秩序を維持しようとし、改革派側の人物は新しい価値観と新しい社会システム、新しい秩序を作ることこそが人類を救うと信じ、虐げられているグループは現状を破壊する武装解放闘争を志向している。それは相互に非和解的な立場であり、ギリギリの存亡を賭けた闘いの中で、それぞれが自分たちの目的のために手段を選んでおられず、非情で暴力的な抗争へ向かっていくのである。
 それは別の言い方をすれば、差別と排除の論理である。人間は繁栄のためにレプリカントや貧民を奴隷として酷使しようとし、新型レプリカントはその人間社会の中で自分を位置づけ、生き残るために、旧型のレプリカントを問答無用で抹殺したり、果てには対立勢力を襲撃し、殺人や拉致なども容赦なく遂行する。プレストーリーのひとつである渡辺信一郎監督によるアニメ「ブレードランナー ブラックアウト 2022」でも描かれるように、8型レプリカントは自分たちが生き延びるために人間を殺戮してでも、いわばステロタイプの革命戦争とも言える解放闘争を実行する。この映画の登場人物達は皆、誰かを敵と味方に分け、敵を徹底的に排除しようとしているのである。
 言うまでもないが付け加えておけば、その構造は現代世界における人類が抱えている問題そのものであることが明らかだ。新型レプリカントが旧型レプリカントを探し出して抹殺する姿は、常に「私(たち)」との違いを見つけては排除したがる現代の我々の社会そのものと言っても良い。
 この映画にはこうした問題への解答は無い。この作品のメッセージは、オリジナルでレプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)がハリソン・フォード演じるデッカードの命を最後に助けるというヒューマニズムの希望を見せたメッセージとは違う。むしろ、登場人物達が「人間」性を喪失する物語の中で、唯一ヒューマニスティックな登場「人物」が実態を持たないAI(補足2)であるという設定が、この映画のひとつのメッセージなのかもしれない。それだけ現代の闇が深いと言うことか。

 オリジナルの公開はまさに冷戦時代の終盤にあたり、ヨーロッパを基点とした実戦型核ミサイルの配備に反対する世界的な大闘争が巻き起こる一方、ソ連はアフガニスタンに侵攻し「終わりの始まり」に突入していた。それは暗い未来を感じさせつつ、しかし同時に第二次大戦後の民主主義と平和主義、人権思想の拡大と高まりはいまだ衰えず、人類の文化は前進していくのだという確信を多くの人々が持っている時代だった。オリジナルはまさにこうした意識を反映した映画だったと言えよう。
 それに対して「2049」は、原理主義とナショナリズム、ヘイトと排除が広がる現代を表現している。どこかで近代の文化は折り返し、復古的な権力志向の時代へと逆戻りしてしまった。独裁と専制と差別と排除と暴力と戦争が公然と肯定される社会になりつつある。
 そこにおそらく、この二つの映画の絶望の意味の違いがあるのだ。

 とは言え、この物語の中で中軸に描かれているのは社会問題では無く、レプリカントである主人公Kの姿を通じたアイデンティティの問題である。当初は自分というものを持たず、ただ従属するだけの存在であり、わずかに自分を取り戻す瞬間がホログラムとの会話の時間だけ、それも上司からの呼び出しがあれば即座に中断するという、いわば「社畜」であるのだが、それがストーリーの展開とともに変化していく。
 つまりこの物語はKの「自分探し」の物語なのである。しかし、Kが探そうとする本物の自分とは何なのだろうか。ひとりの人間が本当に純粋なオリジナルであることなど、実はあり得ない。「人間」が「生物学的なヒト」と区別されるのは社会と文化の中に生まれ育つからであって、それはつまりあらゆることを真似て(コピーして)自分が形成されると言うことなのである。ちなみに「まなぶ」という言葉は「まねる」を語源としていると言う。
 重要なことは、そのコピーされた巨大な基盤の上に、ほんの少しでもオリジナルな何かを加えられるのかどうかということでしかない。(補足3)そして、おそらくこの映画は主人公がそれを獲得するかどうかということを描こうとしているのだろう。

 ただ、最後にもうひとつの疑問は残る。作品世界の人々はそれぞれの属する集団によって異なった正義を持ち、そのことによって人間性を喪失していく。一方でKはアイデンティティを求めて自己に拘泥することを通じて、逆に「人間的」になっていく。しかしだからと言って単純に自分に拘泥することが正解だと言ってよいのだろうか? それは結局は社会との関係性と自分を遮断し、自分だけの価値観に引きこもることにしかならないのではないのか。それがもう一度、この映画のラストシーンへの疑問としてよみがえってくるのだ。(補足4)


★補足★

*以下は完全にネタバレになります。

補足1
 デッカードと娘(ステリン)が会うことは、作品世界内においては非常に危険なことだ。デッカード自らが娘を守るために自分を消したと述べている。この作品で描かれるように体制側もウォレス側も非常に強力な監視・情報収集能力を持っている以上、ステリンの素性は早晩知られてしまうだろう。ステリンが本当に免疫不全である場合、彼女をどこかに逃がすことはほとんど不可能で、いずれにせよ本作のラストシーンから推測する限り、彼女が殺されることはほぼ確定的である。
 それが分かっているはずなのに、Kもデッカードもステリンの研究所を訪問するのは、どうも納得できない。もちろん、別に隠された設定があるのかもしれないが。
 ぼくから見ると、これはオリジナルの劇場公開版の逃亡するラストシーンと同じように不必要なシーンだったのではないかと思える。

補足2
 ホログラフィと呼ばれるジョイのこと。
 それではなぜジョイが一番ヒューマニスティックなのか? ひとつには彼女が献身的であるという点が挙げられるが、実はこの映画の登場人物は皆献身的である。それぞれが自分の立場に忠実で死をも恐れない。違っているのは、ジョイの「正義」がKという個人に対する「愛」という個人的な立場性であることだけだ。本記事内で指摘しているように、それは社会や組織的な責任を持つ立場と比べた場合にどういう意味を持つのか、ということは問題になると思う。

補足3
 Kは上司に隠しながら、反逆とも言えるような形で本物の自分を探し出すのだが、結局はそれも嘘で、偽物であることを知る。空虚な自分から、一度は実態を得て(と実感を得て)、しかし更に大きな空虚に突き落とされる。
 一方のジョイは初めから何も無い空虚の中から、いつの間にか「愛」と「献身」という中身を得る。ただし、それはあくまでプログラミング上の、いわば幻想上の、かつステロタイプな「人間」風の反応であるだけかもしれない。しかし、他者の内部に入り込むことが出来ない以上、外面的な対応こそが真の実体であると見ざるを得ない。ジョイは何らかの「オリジナルな何か」を獲得したのである。
 そしてKも、最後に誰の命令でも無くデッカードを救い出し、娘と会わせるというヒューマニスティックな行動をとることで「オリジナルな何か」を得たことを証明する。ラストシーンの必要性は、そのことを示すためであると言えるかもしれない。

補足4
 Kは社会や組織などの都合や、これから先の展開などを考えずに、デッカードを娘と引き合わせた。そして自分自身はそのまま死んでいくことで、「やりきった俺」として自己完結してしまう。Kにとってはハッピーエンドかもしれないが、彼の選択が本当に正しかったかどうかは、ぼくには大きな疑問である。

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