『シン・ゴジラ』を観て
庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』を観た。ネット上での賛否は分かれているが、秀作であることは間違いない。ぼくはゴジラ映画を全部見たわけでは無いし、庵野作品はテレビ放映版の『エヴァンゲリオン』と劇場版の『シト新生』『Air/まごころを、君に』を観たくらいで(たぶん『ナディア』も最後まで観ていなかったと思う)、映画評論家的に分析することはできないが、ゴジラ映画としては1954年の第一作に次ぐ出来では無いかと、個人的には思う。もっともマイベスト映画かと問われればちょっと違うのだけれど。
以下に感想を書くが、いわゆる「ネタバレ」になるので、未見の人は読まない方が良い。正直言ってたいしてネタバレ的な要素の無い映画だと思うのだが、映画パンフレットには「ネタバレするから映画を観てから読んで」とわざわざ封印までしてあるので、まあここは製作者の意図を尊重したい。
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さて、分かりづらいという感想もあるようだが、別に分かりづらい映画では無い。偽科学的な設定の部分に難解な点もあるが、そこは仕方ないところだろう。むしろドキュメンタリータッチで、複雑な転換も無く、ストーリー自体はかなり単純だ。
もちろん、この映画をどう解釈するのかということになれば、難しいかもしれない。単純なドキュメンタリータッチということは、主観がどこにあるのか隠されているとも言えるので、映画の真の意図を探るとなると、考えて解釈しなくてはならなくなる。そして優れた映画がどれもそうであるように、観る者の視点、立場によって読み方の幅は大きくなるものだ。ここでは、ぼくの観点から読み取ったことを書いていきたい。
まず、この映画を「ゴジラ映画」という歴史性から評価するなら、ゴジラの位置づけを第一作から忠実に、しかも現代映画として耐えうるように解釈しているところが良いと思う。
今回のゴジラは核廃棄物を食べたことによって体質変化を起こし、放射能をまき散らす巨大な怪物になったとされているが、それは第一作の水爆実験によって目覚めて人類を襲ったという設定をなぞっているし、「ゴジラ」という名称が大島(第一作では大戸島)の伝説に基づくという点まで忠実に再現している。当然と言うべきかも知れないが「反核」というゴジラ映画に通底しているテーマも真正直に引き継いでいるが、この点は後でもう一度検討してみよう。
さらに、怪獣映画の真価は、怪獣という存在をどういうものとして解釈し、またそれをどのように具現化するかにかかっている。『シン・ゴジラ』はその点を真摯に追求していて、単なる旧作の「なぞり」で終わっているわけではない。
今回のゴジラには「外部からのエネルギーに頼らず環境に適応して変態し続ける完全生物」という解釈が加えられた。自己完結した完全生物という位置づけは不気味だ。一般的に地球上の生命体は地球環境=生態系によって初めて存立しうる。生態系は複雑な相互連関によって成り立っているから、そのうちの一つのピースが欠けるだけで、生態系全体が崩壊する危険さえある。だからエコロジストは、我々の生活に一見関係ないように見える生物種であっても、それを必死で守りぬこうとする。ヒトもまた生態系の一環に組み込まれているのであり、生態系の小さなバランスの揺らぎのために絶滅してしまうかも知れないからだ。
ところが自己完結した完全生物には、もはや生態系は必要ない。全てを破壊し尽くしても自らの生存に何も問題ない。そこでまたその環境に適応すれば良いのだから。今回のゴジラの不気味さはそうした意味で、他者と完全に断絶した存在が出現したら、それ以外の存在は全て滅ぼされてしまう危険性があるという寓意にある。ここでイスラム原理主義を引き合いに出すのが妥当かどうかは分からないが、そうした自己完結的な勢力が21世紀に出現していることもまた事実である。
しかし、完全生物のゴジラも、実は自らの完全性を喜んでいるわけでは無いらしい。ゴジラは地上に上がるとエラから激しく出血し、巨大化すると体中に赤い傷のような線が現れる。苦痛に暴れながら、彼(彼女)は孤独に、ただ自分への攻撃に反撃するだけのために生き続けるのである。だが画面からはあまりにも巨大かつ強大で意思疎通不能の化け物に、同情できるような要素はほとんど感じられない。それは彼(彼女)がまさに神だからなのかもしれないし、(現代人があえて目をそらす)完全なる絶望の具現化だからかもしれない。
映像は素晴らしい。カメラワークは徹底して人間の視点である。実際にそこでそれが起きた時、人間の目、もしくは報道のカメラから見えるであろう画像にこだわって作られている。ゴジラが熱線で東京のビル群を破壊しまくる映像も美しい(ちなみに東京大空襲を経験したぼくの母は、空襲の赤い炎に照らされた真っ白なB29爆撃機がとてもきれいだったと言っている)。
ゴジラの造形も気持ち悪く、恐ろしい。まぶたの無い目、無意味に乱れて生える鋭い歯。人間から一番遠いところにいる存在であることをよく表現していると思う。
もう一つ、『シン・ゴジラ』を評価するなら、これが意識的に反ハリウッド映画として作られている点だろう。良く知られたことであるが、現代のアメリカ映画は完全にパターンがセオリー化しており、シナリオの展開は分数まで決められていると言う。このために、現在の米国のエンターテインメント映画は、何を見ても同じような感じがしてしまう。
これに対して庵野監督は意図的にハリウッド的要素を退けていると思われる。この映画にはロマンスもエロチシズムもスーパーヒーローも無い。監督の反骨精神と気概を感じる。しかも怪獣映画としては驚異的なことに、毒薬を経口投与して退治するという前代未聞のシナリオになっている。地味と言うにも地味すぎる。あの怪獣のすさまじい破壊シーンに対してこの終幕なのだ。もちろんここには、巨大な力に対する非力な者たちの知恵と団結による勝利という意味が込められているのだろうけれど、ハリウッド的なものに対するアンチテーゼだと言っても良いだろう。
冒頭でこの映画がドキュメンタリータッチだと述べたが、それはロマンス、エロ、スーパーヒーロー要素抜きにエンタテインメント映画を成立させる手法でもある。その代わりになっているのが膨大な群像劇という形式だ。誰かにじっくり焦点を当てて描くことが出来ないほど、大量の登場人物が出てくる。何人もの主役級の役者を数秒ずつ使うという大変贅沢な作りだ。話が逸れるがこれこそがゴジラの力なのだろう。『トラ・トラ・トラ』とか『史上最大の作戦』とか、昔で言うオールスター映画の味がする。
さて、それではいったいどのようなドキュメンタリーなのかと言えば、これは政治映画と言って良いだろう。政治主張映画では無い。ようするに政治現場のフェイク・ドキュメンタリーなのだ。これはどういう意味か。つまり庵野監督のイメージするリアリティがここにあると言うことであろう。本当に現実に怪獣が東京に出現したら何が起こるのか。誰がどういう対応をするのか。それはおそらく政府、行政が対応するのだろう。そしてそこにはひどい混乱が起こるだろう。それをシミュレーションして映像化する。確かにリアリティだ。
これを精緻に描こうとすれば、政府は現実には巨大なシステムだから、大きな群像劇にならざるを得ない。もしこの映画をこれ以上広げたら、収拾がつかなくなって訳がわからなくなっていただろう。結果的に(か、意図的にか)出てくるのは怪獣の破壊シーンと行政府内部の会議室・執務室シーンだけだと言って良い映画になった。
いくつか指摘できる点がある。最大の注目点はここには悪人が出て来ないということだ。愚鈍な者や自己保身的な者はいるが、エンタメ映画によくあるストーリーを左右するような典型的な悪漢は存在しない。人々はただただゴジラという絶望的な災害に翻弄されるだけである。悪人がいないということは、逆説的に正義の味方もいないし正義も無いということだ。さらに言えば正解も無い。最終的に主人公の青年政治家(矢口蘭堂=内閣官房副長官)グループの作戦がとりあえず成功し、ゴジラは凍りついて活動を止めるのだが、果たして死までも超越しているとさえ言われる完全生命体の動きを最終的に封殺したと言えるのか。氷は溶けないのか? 氷が溶けたらまたゴジラは動き出すのではないのか。その時は再び米軍主導の核攻撃作戦が発動されるのではないのか…。観客にはそんな疑問が残っただろう。このゴジラ退治法は必ずしも正解ではないかも知れないのだ。もしかしたら、これは福島原発事故で汚染水対策として決定された凍土壁の比喩なのかも知れない。周知の通り、初めから疑問視されていたように、福島原発の凍土壁はどこまで行ってもうまくいかず、ついに全てを凍結させることは不可能と宣言されるまでになってしまった。
繰り返しになるが、庵野監督がこの『シン・ゴジラ』を政府内部を描く映画として作ったのは、彼のリアリズムに従ってのことだろう。普通のエンタメ映画のように(それは第一作もそうなのだが)、一般庶民であるひとりの人物が、突然奇跡のような解決策を見つけ出して敵をやっつけるというストーリーはあまりにも荒唐無稽である。だから庵野は政治映画としてゴジラを描いたのだが、それはまた当然ながら「上から」の視点の映画になった。しかしそのことは同時にこの映画自体の「危険性」を生むことにもなっている。
ぼくはこの政府内部を舞台とする作り方が、庵野のある種の保守性というか、複雑な思い(コンプレックス)に大きく規定されていると思う。複雑な思いというのは、庵野が師とも言える『風の谷のナウシカ』の宮崎駿監督に対する敬意と反発、つまり絶対的権力に対する憧憬と嫌悪のない交ぜの意識を持ち続けているのではないのかと言うことだ。庵野にとって権力は桎梏ではないのだろう。別の言い方をすれば、彼は時として場違いな楽天性をさらけ出す。政府と政治家は基本的に国民、国家のために仕事をする、という教科書的な観念が、リアリズムで描くなら政治は善意として行われるはずだという視点を生んでいるのである。
この映画において議会や法律は有事の際の桎梏になるという描かれ方をされている。事実、国会や野党政治家、各省庁内部は描かれない。ぼくが気になったのは、ほんの数秒だが、国会前にデモ隊が押し寄せているようなカットがちらりと出てくるところだ。どうやらゴジラを退治しろと政府に要求しているように見える。映像自体はおそらく反原発か反安保法のデモのニュースの流用だろうが、そもそも大災害の最中にこのようなデモが起きるとは考えづらい。これは明らかに災害対応の足を引っぱる行為であろうし、「愚かな民衆」というイメージを強調するカットとしか思えない。不用意というか不自然なカットである。もう少し言えば、反原発や反安保法運動が、政府が強行しようとする政策を止めようとするものであったのに対して、ゴジラ撃退要求は「何もしない政府」に軍事力発動(?)を求めるもので、そのベクトルは全く逆である。あえて言えば、前者が左派的であるとすれば、後者は右派的だ。
この映画では、政府は国民、国家のために最善を尽くす。それに水を差す者、理解しない者は愚かである。もちろん政府内部にも賢明な者とそうでない者がいて確執があるが、賢明な指導者は反対があっても自分を押し通し、事態を最良の方向に向かわせなくてはならない。残念ではあるが、こうした描き方、視点を穿っていくと、行き着く先には民主主義の否定、独裁者の肯定という思想的な危険性が見えたりもする。好意的に見るならば、こうした上からのリアリズムは、庵野の右翼的感性と言うよりも、健全な(もしくは凡庸な)政治思想の表れと言うべきなのかもしれないが。
しかしもちろん庵野のようなリアリズムとはまた違ったリアリズムもあるに違いない。上からの視点である庵野に対して、例えば『パトレイバー』の押井守監督であればどんな映画を撮るだろうと考えてしまう。押井であれば下から、もしくは外れ者の視点から、非ハリウッド的なリアリズム映画を撮ることも出来るのではないだろうか。今回のシナリオでは謎のキーマンとして描かれる牧教授という老人がいる。彼は実際には登場せず、故岡本喜八監督の肖像写真としてのみ表示されるのだが、この牧教授がなぜゴジラの出現ポイントで行方不明になったのか、そして彼の残した遺書の意味は何なのか、この点は最後まで明確に説明されない。一方主人公は、癖のありそうなフリージャーナリストに依頼して秘密裏に牧の動向を探らせる。このエピソードは全体から見るとわずか2カットしかなく、しかも全体の流れから言って唐突であり、余り必然性を感じさせない。もちろん庵野には意図があってこのエピソードを挿入しているのだろうが、これが押井ならここを一つの物語の軸として「下から」見るリアリズムを構築することが出来たのではと思ったりする。もちろんそのように、消えた老人を大災害に破壊されつつある大都会の中で追うというストーリーになっていたら、映画はもっと難解になっていただろうが。
『シン・ゴジラ』は政治主張と言うより、庵野監督なりのリアリズムとして描かれたというのがぼくの見解だが、しかしそれでもなお、やはりこの映画の中に政治的主張や政治思想が存在しないわけでは無い。
誰が見ても明らかなのは、前述したとおり「反核」主義である。それは第一作のテーマであり、基本的にゴジラ映画のDNAとして引き継がれてきたものだ。主人公は米国主導の核攻撃作戦を食い止めるべく最後まで粘り続ける。なお、付け加えれば、ギャレス・エドワーズ監督版のゴジラも含めて、2010年代のゴジラ映画はどうしても3.11のメタファーにならざるを得ない。当然そこには放射能汚染問題も入り込んでくる。第一作が戦争と原爆のリアリティに裏打ちされていたとすれば、現代のゴジラは東日本大震災と原発事故のリアリティの上に存在するのである。
ここまではある意味で当然だとして、そこからもう少し踏み込めば、この映画の国際感覚は、反米とは言わないまでも米国一極主義外交への批判であり、中露への不信感であり、親欧的意識である。微笑ましい(?)のは、と言いながら結局最後には米国民は日本人を信頼し協力してくれるはずだという楽観主義である。現実はそんなに甘いものでは無いのだが。トランプ旋風の中で作られていればもっと違っていただろうか。劇中で主人公は旧日本軍の楽観主義的思想が日本の敗戦を招いたと批判しているが、庵野監督の楽観もなかなかのものだ。
本作の中で自衛隊は無力ではあるが勇敢で忠実で献身的な存在として描かれている。そのことは3.11に象徴される災害救助隊としての自衛隊のイメージに負うところが大きいかも知れない。この映画においては当然ではあるが、海外派兵を行う軍隊としての自衛隊ではなく、本来の「自衛」隊として描かれている。健全ではある。
自衛隊の作戦失敗を受け、日米安保に基づく米軍B2爆撃機によるゴジラ攻撃が行われるが、これも瞬間的には効果を発揮するものの即座に全滅させられる。米国はそれ以上の反撃を止めてあっさりと核攻撃戦略へと切り替えてしまう。米国がなぜゴジラへの核攻撃にこだわるのかと言えば、無限に変身を続けるゴジラがいつ羽を生やして米国本土に飛来するかもしれないからだ。米本土において核を使うより遠く離れた日本で核を使う方が良いという判断である。中露も自分たちに都合の良いゴジラの国際管理を主張してくる。主要閣僚をいっぺんに失い、経済的にもどん底に落ち込んだ日本は、各国の意図に翻弄されるしかない。
第一作のゴジラが不安の中にも、ともかくもゴジラという怪物を骨まで溶かして葬り去るという希望的ラストであったのに対し、『シン・ゴジラ』はスタイリッシュな都会的な人物と風景の背景にいつまでもゴジラが屹立し続ける文字通り冷たい終わり方をした。主人公もまた、「指導者が失われても代わりはいる」、「犠牲者を出した責任を取って辞める」と言いながら、しかし結局のところ実際には政治家を辞めるつもりはないし、おそらく何かを変えるよりも、何かを守り継続することを自らの使命と考える指導者になっていくのだろう。ゴジラ=核の恐怖が何度も繰り返されるだろうという思想的な警告を発した第一作のラストとは大きく違う。戦争の悲劇を主体的な反省として受け止めた第一作と、繁栄を外部の力でむりやり奪われたと被害者意識で考える『シン・ゴジラ』のレベルの違いであろう。いずれにせよ、庵野が意図しているかどうかはともかく、こうした部分では庵野のリアリティは確かに21世紀の日本を表現してはいる。
『シン・ゴジラ』の感想を述べてきたが、それでも最後まで解釈できない「謎」もある。前述した牧教授の足跡もそのひとつだ。おそらく彼はゴジラの上陸を知っていたはずだ。彼はなぜそれを知っていたのか。彼は何をしようとしたのか。そもそもなぜゴジラは東京に上陸したのか。これは最大の謎である。生物は基本的に保守的である。自己の生存と種の存続に対する危険が無い限り、自分の生存環境を変えることはしない。同じ場所で同じ生活を続ける、それが生物の原則だ。だからシーラカンスのような生物もいる。もちろん環境が変化したり、生存競争に敗れそうになったりした場合には、新しい生活環境へ移動したり自らを進化させたりする。しかし、完全生物であるゴジラには生物的危機が存在しない。餌をとる必要さえない。逆説的だが完全生物はすでに生物ではない。有機的な永久機関とも言うべきものである。つまりゴジラには生息環境を変える必然も、そもそも移動・行動する必然さえない。そのゴジラがなぜ陸上にやって来なければならないのか。これは物語の根幹に関わる大きな謎なのだ。
最後に牧教授に関わる別の小さな謎をひとつ。アメリカ現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は折り鶴を折って原爆資料館に残していった。折り鶴は反核の象徴である。映画では、牧教授が残した幾何学的な図面を立体的に折り上げることによってその意味が明らかになるというシーンがある。牧教授の図面は折り紙だったのだろうか。「折る」という字と「祈る」という字はとてもよく似ている。そのことを理解できるのは日本人だけかも知れないが。
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