映画・テレビ

2021年2月26日 (金)

アバター・オブ・マーズ

 小学生の頃、放課後よく図書室に行って本を借りて読んでいた。大抵がいわゆる名作だった。あとミステリー。一方で人気が高くよく貸し出されていたスペースオペラなどは低級だと考えてずっとスルーしていた。まあ嫌みな子供である。
 そんな中で、たまたま気まぐれに手に取ったのが、エドガー・ライス・バロウズ(E.R.B)の「火星のプリンセス」だった。もちろん子供向けのジュブナイル版だったが、これはとても心に残った。
 やがて中学に入ると普通の文庫本を読むようになり、本屋巡りが趣味になった。一番近いところでは通学で使うバス停の前にあった文房具店兼書店(こういう店は昔は多かった)。あとは川口、赤羽、池袋、それから神保町。このころはもう読むのはSFが多くなっていた。ただ日本人作家が中心で、依然としてスペオペは読むことがなかった。例外はやはりE.R.Bで、あの武部本一郎画伯のカバーイラストが有名な創元SF文庫と出会って、これがあの本の原作なのかと買ってからは、火星シリーズ、ペルシダーシリーズと高校時代までずっと読み継いでいた。

 ぼくがスペオペを軽視していたのには、時代の風潮もあった。1960~70年代はフラワームーブメント、ベトナム反戦、学生運動の時代だった。映画はニューシネマ、SFもニューウェーブ運動が巻き起こり、特に日本SFは文学志向の強い福島正実が事実上のリーダーで、古い価値観にまみれたスペオペはもはや過去のものだった。これを一夜にして180度ひっくり返したのが「スターウォーズ」だったのだが、それはまた別の話。

 さてそんなぼくがなぜE.R.Bに引かれたのか。自分でもよくは分からない。なにしろ彼の作品はどれもほとんど同じストーリーだ。ヒーローがヒロインに出会うがヒロインはさらわれ、それを追いかけてヒーローが長い冒険の旅をして、最後にヒロインと再会する、ようするに偉大なるマンネリ、水戸黄門みたいなものである。
 ただバロウズは先駆者であった。現在のスペースオペラや(ヒロイック)ファンタジーの原型は「火星のプリンセス」にあると言っても良い。
 我々が、いくら古くなってもコナン・ドイルのシャーロック・ホームズに魅せられるように、やはり先駆者の作品には後続の作品に無いオーラがあるのかもしれない。

 前置きが長くなりすぎた。

 そんなスペオペとファンタジーの金字塔である「火星のプリンセス」が映画化されないというのは不思議でしか無かった。原作は1917年である。戦前に映画化されていたっておかしくはない。ウィキペディアによると、実際1930年代から度々映画化の試みがあったが、どれも頓挫してきたようだ。そのひとつの要因はE.R.Bのイマジネーションが上を行き過ぎていて、映像化するのが困難だったことによるのだろう。
 これは「指輪物語」と同じようなものである。多くの人が愛着を持つ古典的作品は、中途半端な映像化では皆納得しない。「指輪」の場合には幸いにもピーター・ジャクソン監督版が大成功したが、そこまでは頓挫の歴史だったようだ。1978年のアニメ版はぼくも劇場で見たが、あれも結局後半部分が作られずじまいだった。

 2012年、ディズニーの「ジョン・カーター」が公開され、まさかと思って調べたらやっぱり「火星のプリンセス」だったので、これは嬉しかった。良く出来た映画だと思ったのだけれど、これが結構不評で、何かスターウォーズの二番煎じやB級SF・ファンタジー映画扱いされてしまった。
 不運としか言いようがない。そういう小説やアニメ、映画のルーツになった作品なんだよと主張しても、もはや原作を知らない人達の方が多くなってしまっている。タイミングは難しい。確かにそもそも原作も古くさい価値観に覆われた大衆娯楽小説ではあるのだが。
 結局このディズニー版も続編が作られることなく終わった。

 そんなとき、たまたまYouTubeでB級映画の予告編を見たら、どうも「火星のプリンセス」っぽい映画ではないか。チープな感じだし、ディズニー版より前の作品のようで、日本での劇場公開はされていないことは明らかだったが詳細がわからない。
 ただそういう映画があるらしいことだけは分かった…、と言うところまでで、実はしばらくこの話は忘れてしまう。
 そんなこんなで、つい先日いろいろ資料整理をしている時にふとこの映画のことを思い出した。再度YouTubeを見てみると今度はフルムービーが上がっているではないか(著作権のことは知らないが)。それで今度はアマゾンを調べた。
 タイトルは「Princess of Mars」、そのまんま。ドイツ語版のDVDがヒット。同じページにいくつか同じ作品へのリンクがあって英語版らしきものもある。途中に全然違うDVDも挟まっていて、これは何かの間違いだろうと思って無視して次へ。だがいろいろ調べている内に、どうも別タイトルがつけられている版があることがわかってきた。それで気づいてもう一回アマゾンに戻って見てみたら、違う作品だと思っていたものが実はこの作品の日本語版DVDであることがわかった。ああー分かりづらい!

 こうしてたどり着いたのが「アバター・オブ・マーズ」(2009)。劇場公開はされておらず、DVDのみで販売されたものだとわかった。日本語吹き替えもついている。
 ヒロインの火星の王女=デジャー・ソリスを演じているのはトレイシー・ローズ。ん?  聞いたことがある名前。たぶん昔、スポーツ新聞や週刊誌、街角でもよく見かけた名前のような。でも実際に映画は見たこと無い。それもそのはず… えーと詳細は各自で調べて下さい(ただし18歳以上限定)。今回初めて知ったが、彼女の若いときの映画は現在ではすべて公開禁止になっているそうだ。

 さて、この「アバター・オブ・マーズ」、検索してみると本当に評判が悪い。どのサイトでも50点以下。でも良い。これは見るしかないとアマゾンの中古販売をポチッた。

 それで見ました。
 当時ヒットした「アバター」のパクリと言われ、確かにそれはそうなのだが、その部分自体は別に気にしなければ違和感は無い。「火星のプリンセス」を現在映画化しようと思えば、設定を原作当時にするか現代に移すかということになるわけで、さらに言えばさすがに現代では舞台をそのまま火星に設定するわけにもいかない。その意味ではこういう設定もありだろう。
 ただ問題は、どうして瀕死の人間だけがテレポート出来るのか、作中で説明も無いし、それだけでなく色々話がわからない。なぜ? ということが多すぎる。だが、ここはまあ裏設定があるのだろうと思うしかない。
 CGや特撮部分がチープなのも低予算だからしかたない。それでも良くやった方だろう。火星の空気製造工場がその辺にある工場そのものなのは笑えるが。お金をかければフルCGの豪華な絵も作れるだろうが、最近のCGアニメの中に実写の人物だけが合成される映画は、あまりにもやり過ぎで見ていて疲れる。ぼくなどはこの程度がむしろ良いくらいだ。
 編集上でひどいところもある。主人公の首に鎖が巻かれているはずなのに、カット毎に有ったり無かったり。これは流石にダメでしょう。
 シナリオはそれなりに原作を生かしていると思うし、そこは嬉しいが、いかんせん何の深みも無い。人物描写は本当に薄っぺらだ。どの登場人物にも何も思い入れが出来ない。これは致命的か?
 トレイシー・ローズが老けてるとかいう意見も多いが、これはこれで味があると思う。だって惑星の女王だよ。それなりの貫禄があっても良いではないか。全編ほぼ無表情を貫いているが存在感はある。

 総じて言えば、もし劇場で3000円払って見たのなら腹が立つかも… もっともそんなことは多々あるが。今回は中古DVDを安く手に入れたこともあって、純粋に作品についてのみ感想が言えるが、結論的にはけっこう良かったと思う。70点あげても良い。
 あまりにも話があっさりし過ぎているところは残念だが、それでももしこの続編が作られていたとしたら、きっとそれも見ただろう。ここにはやはり原作の力が働いているのだと思うけど、「ジョン・カーター」もそうだが、最後の最後の結末が切なくほろ苦く、また期待を持たざるを得ない終わり方だから、この作品は終わっても終わらないのである。

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2020年12月19日 (土)

殺しの免許証(ライセンス)

 知る人ぞ知るカルト的人気を誇るイギリスのB級スパイ・アクション映画である。
 今となっては幻の映画で、ぼくも劇場で見たことはない。おそらく10代のころ、1970年代にテレビで放送されたのを見たのだろう。しかしその記憶は強烈で、ずっとこの映画を追いかけてきた。
 これを語ろうとしても、とっちらかるばかりなので、箇条書き的に書いていこう。

◆魅力

 人それぞれだろうが、ぼくにとっては、このジメジメしたロンドンの臭いである。こういうのはありそうで、なかなか無い。それだけでこの映画は傑作認定して良い。
 低予算だからだろうが、世界中のリゾート地を飛び回るジェームス・ボンドと違い、この映画は徹頭徹尾ロンドンとその周辺だけが描かれる。
 スタイリッシュな殺し屋が靴を脱ぐと、靴下に穴が。良い! 良すぎる! これを見て思い出すのは、フリーマントルの「消されかけた男」で、くたびれたスパイが濡れたハッシュパピーを乾かす場面。ハリウッド映画には無い影を感じさせる映画が好きだ。

◆映画について

 映画のデータ等はウィキペディアに詳しい。
 簡単に触れると、カナダ出身のホラーやサスペンスものを得意とするリンゼイ・ションテフによる監督作品で、1965年公開の英国映画。日本では翌年公開された。主演は「大脱走」で有名なトム・アダムス。
 映画自体は、当時大ヒットしていたショーン・コネリー主演の007シリーズのパロディというか、その設定をパクったものだが、いかにも低予算映画である。とは言え、案外実力派の俳優が参加してもいる。
 後述のように英語タイトルは2つあって、"Licensed to Kill"および"The 2d Best Secret Agent in the Whole Wide World"。

◆シリーズ等

 正直、シリーズや関連作を掘っていくと切りが無いので、簡単な紹介のみで。

続・殺しのライセンス(1966)
(Where the Bullets Fly)
 主演トム・アダムス、監督はジョン・ギリング。上司役は引き続きジョン・アーナット。まあ正当な続編と言える。日本でも劇場公開されている。

Vの追走 マドリッド奪還大作戦(1967-1976)
(Somebody's Stolen Our Russian Spy)/(O.K. Yevtushenko)
 主演トム・アダムス、ホセ・ルイス・マドリッド監督。
 トム・アダムスがチャールズ・バインを演じる3作目かつ最後の作品だが、実質上スペイン映画。作られたのは前作の翌年だったのだが、配給会社が躊躇したのか一時お蔵入りして、公開は約10年後の1976年だったようだ。
 日本ではビデオで発売されている。
 ちなみに"O.K. Yevtushenko"というもうひとつのタイトル。イェフトシェンコという作中のソ連スパイの名に由来するのだが、撮影とほぼ同時期に公開されたイタリア映画の"OK CONNERY"に呼応している。こちらの映画も怪しい映画で、邦題が「ドクター・コネリー/キッドブラザー作戦」。主演がなんとショーン・コネリーの実弟。ヒロインが「ロシアより愛を込めて」のダニエラ・ビアンキ。他にも本家007出演俳優が多数参加するという大変な作品だが、当然、企画を楽しむ以外のものではないとのこと。

シークレットサービスNo.1(1970)
(ビデオ邦題「女王陛下のトップガン」)
(Number One of the Secret Service)
 リンゼイ・ショテフ監督、ニッキー・ヘンソン主演。
 こちらは Charles Vine ならぬ Charles Bind (チャールズ・バインド)が主人公の007パロディ映画。日本ではテレビ放映されているが、ビデオとしても発売された。

女王陛下のトップガン2(1979)
(Licensed to Love and Kill / The Man from S.E.X.)
 リンゼイ・ショテフ監督、ガレス・ハント主演。
 前作と同じく主人公の名前がチャールズ・バインドの007パロディ。まあタイトルがもうすごく怪しい。予告編を見ると、まさにそういう感じの映画。
 日本ではビデオ発売。

Number One Gun(1990)
 リンゼイ・ショテフ監督、マイケル・ハウ主演。
 やはりチャールズ・バインドが主人公、と言うことと、かろうじてポスター写真が見つかるくらいで、ネットにも全然情報が無い。
 YouTubeで予告(というかダイジェスト)が見られるが、無茶苦茶なドタバタ・コメディみたい。全身金属コーティング(?)の人物を忍者が日本刀で切ると刀が折れるとか、ヘリコプターから落ちるとき小さな傘でランディングしたり。バインド・カーは真っ赤なスーパーカー。英語版のDVDはあるようだ。もはや本作とは無関係。

◆確認しうるソース

 後述の通り、本作のDVDは発売されていないか、流通していないので入手不能、または困難である。そのため、かなり強引な方法を使わないと視聴することが出来ない。現在までのところ、ぼくが確認しうるこの映画のソースは主に次の各種。

1.ネット上にある、日本語字幕の付いた動画ファイル
 おそらく日本国内版として発売されたVHSビデオをダビングしたものと推測される。ただぼくが見たものは動画と音声のピッチがずれてしまい、上手く同期していなかった。

2.ネット上にある、字幕の無い動画ファイル
 おそらく米国版のビデオをダビングしたもの。

3.テレビ放映されたものの録画ビデオ
 自分で録画したものを編集して残してあったVHSテープ。
 はっきりしないが、たぶん1990年代後半ににテレビ東京の昼の洋画枠で放送されたものだと記憶している。
 2カ国語放送で、当時の仕様で左右に日英の音声が録れている。字幕は無い。声優等は不明。少なくとも山田康雄ではない。

4.ネット上にある、テーマ曲とされるシングルレコードの音声データ

◆ソフト化

 映画本編は1966年に日本で劇場公開されている。翌年に続編となる「続・殺しのライセンス」も公開された。3作目の"Somebody's Stolen Our Russian Spy"は未公開。
 確認できる限りでは、第一作は日本で字幕版のVHSビデオが発売されている。これがおそらくネット上で出回っている動画のもとだと思われる。
 イギリスのAmazonに第一作と第二作がパッケージされたDVD-Rが出品されているが、どうやらビデオをダビングした海賊版らしい。ということは、第二作は本国ではビデオが発売された可能性がある。ただし、未だにDVDもブルーレイも未発売のようだ。権利関係の問題だろうか。
 第3作は前述のようにビデオ販売さているが、現在欧州では有料ストリーミング配信で観ることができるらしい。

◆編集バージョンについて

 この映画に限らず、映画は生き物なので、様々なバージョンが次々生まれる。そうしたバージョン違いについて考察する。

1.英国オリジナル版
 リンゼイ・ショテフのオリジナル版。日本語字幕版をこのオリジナル版に字幕を付けたものと推測して、以下記述をする。
 タイトルは"Licensed to Kill"。冒頭にタイトルとクレジットが置かれている。この冒頭のテーマ曲はホーンセクションを前面に押し出したビッグバンドジャズ系のインストゥルメンタルである。バートラム・チャッペルのものと考えて良いだろう。
 このクレジットシーンの後に公園のシーン、続いてソ連情報部の出先オフィスのシーンにつながる。

2.米国公開版
 プロデューサーのジョセフ・E・レヴィンによって再編集され、"The Second Best Secret Agent in the Whole Wide World"のタイトルで米国および世界で公開されたバージョン。
 最も大きな特色は、公園のシーンを冒頭に移してヤコブセン教授の演説音声をカット、次にタイトルとクレジットを挿入するのだが、このテーマ曲を新たに作ったサミー・デイビス・ジュニアの歌に差し替えてあること。タイトル表示もアニメーションを使ったユーモラスなものに変更してある。
 ネット上の字幕無しの動画ファイルがこれに相当すると考えられるが、いくつか不明な点もある。
 ネット上の動画ではクレジット部分のみがビスタサイズ(ワイド)(と言うよりは縮小?)になっていて、本編はスタンダードサイズ(4:3)である。そもそもこういう編集なのか、それとも米国上映時にサイズを変更したものがあるのか、それを再々編集したものがネット上の動画なのか、よくわからない。
 と言うのは、英語版Wikipediaを見ると、米国版はベッド上でのクロスワード・パズルのシーンや、英国情報局のオフィスで「ボンド」に言及するシーン、「リグレブ」の説明に言及するシーンなどがカットされていると書かれているが、現在知りうる限りでは、この動画ファイルにカットされたシーンがあるようには思えないからである。

3.日本公開版、テレビ放映版とニセトラ
 日本語タイトルがどの媒体でも"Licensed to Kill"か「殺しの許可証(ライセンス)」なので、おそらく日本公開版は英国オリジナル版なのではないかと推察できる。
 テレビ放映されたものも、当然テレビの尺に合わせてカットされている部分はあるものの、基本は英国オリジナル版である。教授の演説音声もある。
 ただし違うのはテーマ曲だ。1とも2とも違う。この映画の話題で一番多い「ニセトラ」が使われている。この「ニセトラ」問題はネット上で詳しく議論されているから踏み込まないが、サックス奏者の尾田悟のバンドによるものというのが定説だ。これがサントラとして発売されていたシングルレコードと同一の音源ということになる。
 一部に尾田の作曲という話もあるが、実際に聴いてみると、オリジナルで使われている、おそらくチャールズ・バインのテーマと思われる曲をアレンジしたもののようだ。オリジナルの方はエレキギターとホーンセクションによるモダンジャズ風のアップテンポの曲だが、「ニセトラ」の方はホーンセクションを排除してテンポを遅くし、Aテーマのみを繰り返す演奏になっている。カッコイイ曲に仕上がっていて、日本のファンはこの曲に引かれた人も多いのでは無いかと思うが、原曲と比べるとやや単調という気もする。
 問題なのは、この曲が日本での劇場公開時点から差し替えられていたのか、テレビ放送時に差し替えられたのかだが、レコードが「サントラ」として受容されていたのであれば、劇場公開時点で差し替えられていた可能性が高い。

◆謎の女

 実はこの映画には影の謎の女が存在する。エステール・E・リッチモンドだ。この人、クレジットに「制作主任」として、プロデューサーや監督と同じ並びで大きな文字で表記されているのだが、ネット上で検索しても全くヒットしない。
 一体何者なのか。誰かの変名なのだろうか。

◆俳優のトリビア

 モーゼル軍用拳銃が登場することなどから、ガンマニア系のトリビアはネット上で良く議論されているし、ぼくは詳しくないので省く。
 さて、本編中に少なくとも2箇所、同年公開の本家007「ゴールドフィンガー」を匂わせる台詞があるのも有名だが、実は出演俳優の中に2人、前年公開の本家「ロシアより愛を込めて」に出ている人がいる。 
 英外務省高官役のフランシス・デ・ウルフと、ソ連官僚役のジョージ・パステルで、それぞれロマの長の役と、オリエント急行の車掌役である。
 なお、ソ連のエージェントが化けた女の役をやったモナ・チョンは、後に本家の「女王陛下の007」に出演した。
 もうひとりのソ連官僚役のオリバー・マックグリービーは、前述の「女王陛下のトップガン」に起用されている。
 女助手役のベロニカ・ハーストは主に戦前の映画でキャリアを築いた女優らしいが、その夫が「2001年宇宙の旅」などで有名なウィリアム・シルベスターで、彼の方は「007は二度死ぬ」に出演。
 最初と最後にちょっとしか登場せず、しかも台詞が一言も無い怪演が印象深いロバート・マーズデンは、実はシェークスピア役者でけっこうな大物っぽい。

◆台詞のトリビア

 本家007を匂わせる台詞の件は有名なので省く。
 本編の中には意味があるのかどうかわからない台詞がいくつか登場する。
 ひとつは、教授たちを乗せてアメリカに向かうために用意された貨物船の名称。ぼくには聞き取る耳が無いのだが、字幕では「SSドラム号」となっている。バインの言によれば20年無事故だという。これを調べてみると、第二次世界大戦中のアメリカの潜水艦"USS Drum, SS-228"(SS-228番ドラム号)に行き当たる。太平洋で対日戦に従事した潜水艦で、多くの輸送船などを沈めた有名な船のようだ。
 この船の就役が1941年、退役が1946年で、この映画の公開時点で退役後約20年だった。当時はアメリカで係留され公開展示されていたらしい。
 ただし、日本語吹き替えでは「ダーハム号」とされており、これは翻訳者が船名を"Durham"と聞き取った可能性がある。"Durham"は日本では一般的にイングランド北東部のダラム市を指す。
 もうひとつ不明な固有名詞として、ソ連の殺し屋の任務が「TSR2の監視」と語られている部分。
 作中ではこれは「屠殺場」ということになっているが、"TSR-2"は当時イギリス軍が開発中のジェット爆撃機の型名だった。この映画の時点では開発途中であったが、後に計画は中止された。映画の言及との関係はわからない。
 ついでに日本語版で気づいたことを。
 ひとつは、ファーストシーンで教授の弟が撃ち殺された後、乳母車を押す女と警官が言葉を交わす。これはおそらく"Mornin' No.10"とか、ようするに6号と10号が「お疲れ」とか言ってるのだと思うが、そこは字幕、吹き替えともはっきりさせていない。これは後のウィルソンがマスターマンの賛辞に答えるシーンの台詞の布石になるので、明確にしておいた方が良いと思う。
 もうひとつ、ソ連の殺し屋の名前が、本編では「サディスティコフ」と言っているようで、字幕もそうなっているが、吹き替え版では「ソルーニン」になっている。言いづらいからか、サディストと聞こえるからか理由は良く分からないが、「ソ連」と「レーニン」を掛け合わせたみたいで絶妙というか微妙というか。ちなみに実際にソルーニンはロシア人の名前としては不自然なものでは無いようである。

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2019年7月 3日 (水)

ゴジラ・キング・オブ・ザ・モンスター

 ずいぶんと長いこと更新をしていなかった。

 2017年の暮れに母が家の中で転倒し、頭を切った。

 おそらくそれが転換点だったのだと思う。

 

 それから1年半。

 長いようで短い期間だった。

 その話はまたそのうちすることがあるかもしれない。

 

 今日、本当に久しぶりに映画を見に行った。

 「ゴジラ・キング・オブ・モンスター」

 いろいろ不満はある。

 しかし、面白かったことは認めざるを得ない。

 面白いということが、必ずしも作品の質と一致しないのはしかたないこと。

 

 以下はネタバレになるのでご注意を。

 

 ゴジラとキングギドラとモスラとラドン。

 この怪獣がバトルを繰り広げるというだけで、楽しくなってしまう。

 特に音楽にオリジナルのテーマが利用されているところは感動ものだ。(アレンジに違和感があるものの)

 CGで作られた特撮シーンはやはり素晴らしい出来。

 というか、それを見せるだけの映画とも言えようが。

 

 シナリオはごたごたしすぎ。

 詰め込みすぎて、ストーリーがぶち切れになっている。

 いったいなぜ芹沢博士は死にに行ったのか。

 その辺の説得力は全くない。だから感動もない。

 エマ博士の死も全くの帳尻合わせでしかなくて、まあ死ぬしか無いよなと初めから決まっていたから死んだだけ。「オルカ」ってどこまで怪獣に聞こえるんだよって思った。モスラの幼虫はともかく、バトル中のキングギドラに聞こえるのか。

 なにより、核兵器の具現化であるゴジラをもう一度核兵器の力でよみがえらせて、しかもそれが地球環境の崩壊と人類の滅亡を防ぐ唯一の存在だとは。

 しかもゴジラは神様で人間より偉いというのは、核兵器を頂点とする軍事力(映画では古代怪獣の力として表現されているが)こそが人類に平和をもたらすのだという、まさに後戻りしたアメリカの大国主義思想そのものではないか。ほんと、やめてもらいたい。

 海底で核爆発が起きた直後に裸同然で潜水艦の上からのんびり状況を眺め、汚染されているはずの海水を頭からかぶり、ゴジラが通った放射能汚染されているはずの場所が自然回復の起点になってしまうなど、ともかく前作にはまだあったと思えた核と放射能汚染への警戒感が全く無くなっている。

 それでいて敵役は「環境テロリスト」なんだって! なんだ環境テロリストって。そんなの本当にいるのか。

 結局、グリーンピースとか、先鋭的環境保全団体をテロリスト呼ばわりする反環境保護主義、権力と大企業にべったりのエセ環境派的立場からの視点と言わざるを得ない。

 うがったついでに言えば、もう「ひとり」の悪役であるキングギドラも、地球外生命体だから悪者扱いされているわけ。排外主義でしょ、これ。

 ギドラもオルカが使えるんだから、意思疎通だって可能なんじゃないの。そもそも古代人の壁画とかではゴジラと並んで神様にされてるんじゃないの。

 やっぱりシナリオが悪い。

 困ったもんだ。

 

 

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2017年11月20日 (月)

「ブレードランナー2049」を観て(加筆修正版)

*どうしてもネタバレになってしまうので、神経質な人は映画を観る前に読まないでください。
*最初の投稿文を加筆修正しました。

 「ブレードランナー2049」を観た。映画館で映画を観るのは年に1~2回あるかないかなので、あくまで自分の中での話だが、とりあえず最近観た映画の中では良い出来の方だと思う。とは言え、やはりオリジナル(「ブレードランナー」1982年)を越えるのは難しく、「それなりに」と言うことだ。
 タルコフスキーの「ソラリス」と比べるのもなんだが、思ったほどハリウッド的な編集では無く、長回しのカットが雰囲気を出している。基本的にアクション映画なのだろうが、詩的な絵が多い。サイバーパンクの世界像は、実際にセットを作り込んで撮っているそうで、力を感じるが、しかしちょっとノスタルジックに過ぎると感じなくも無い。

 それにしても、やはり暗い物語だ。展望を感じさせない。オリジナルのいわゆる劇場公開版にだけは最後に明るい逃亡シーンがあったが、それはおそらく監督のイメージでは無かった。そうした絶望的で救いの無い世界観が引き継がれたと言っても良い。
 今回の映画でひとつ疑問に思ったのはラストシーンだ。必要だったのか? シナリオ的には伏線の回収=オチというか謎解きの意味があるので必要性はあるのかもしれないが。(補足1)うがって考えれば続編への布石なのかもしれない。
 なお、YouTubeで事前に公開されているプレストーリーのショートムービーは観た方が良い。映画を観る前に観ればストーリーを理解する助けになるし、映画の後に観れば謎解き的に楽しめると思う。

 さて、それにしても問題になるのはこの映画のテーマだ。
 これは仕方ない問題でもあるのだが、基本的にはオリジナルのテーマをなぞったというか、深化させたもので、その意味では新しいテーマではない。それはつまり、オリジナルとは何か? コピーとは何か? 自分とは何か?、そして人間性とは何か、正義とは何かということだろう。

 変な言い方だが、この映画には悪人が出て来ない。敵役はいるがそれは個人的な悪意を持つ人物では無い。登場人物はそれぞれの正義を背負って、それを実現させようとしているのだ。
 体制側にいる人物は現状の世界の崩壊を防ぐためにこれまでの秩序を維持しようとし、改革派側の人物は新しい価値観と新しい社会システム、新しい秩序を作ることこそが人類を救うと信じ、虐げられているグループは現状を破壊する武装解放闘争を志向している。それは相互に非和解的な立場であり、ギリギリの存亡を賭けた闘いの中で、それぞれが自分たちの目的のために手段を選んでおられず、非情で暴力的な抗争へ向かっていくのである。
 それは別の言い方をすれば、差別と排除の論理である。人間は繁栄のためにレプリカントや貧民を奴隷として酷使しようとし、新型レプリカントはその人間社会の中で自分を位置づけ、生き残るために、旧型のレプリカントを問答無用で抹殺したり、果てには対立勢力を襲撃し、殺人や拉致なども容赦なく遂行する。プレストーリーのひとつである渡辺信一郎監督によるアニメ「ブレードランナー ブラックアウト 2022」でも描かれるように、8型レプリカントは自分たちが生き延びるために人間を殺戮してでも、いわばステロタイプの革命戦争とも言える解放闘争を実行する。この映画の登場人物達は皆、誰かを敵と味方に分け、敵を徹底的に排除しようとしているのである。
 言うまでもないが付け加えておけば、その構造は現代世界における人類が抱えている問題そのものであることが明らかだ。新型レプリカントが旧型レプリカントを探し出して抹殺する姿は、常に「私(たち)」との違いを見つけては排除したがる現代の我々の社会そのものと言っても良い。
 この映画にはこうした問題への解答は無い。この作品のメッセージは、オリジナルでレプリカントのロイ(ルトガー・ハウアー)がハリソン・フォード演じるデッカードの命を最後に助けるというヒューマニズムの希望を見せたメッセージとは違う。むしろ、登場人物達が「人間」性を喪失する物語の中で、唯一ヒューマニスティックな登場「人物」が実態を持たないAI(補足2)であるという設定が、この映画のひとつのメッセージなのかもしれない。それだけ現代の闇が深いと言うことか。

 オリジナルの公開はまさに冷戦時代の終盤にあたり、ヨーロッパを基点とした実戦型核ミサイルの配備に反対する世界的な大闘争が巻き起こる一方、ソ連はアフガニスタンに侵攻し「終わりの始まり」に突入していた。それは暗い未来を感じさせつつ、しかし同時に第二次大戦後の民主主義と平和主義、人権思想の拡大と高まりはいまだ衰えず、人類の文化は前進していくのだという確信を多くの人々が持っている時代だった。オリジナルはまさにこうした意識を反映した映画だったと言えよう。
 それに対して「2049」は、原理主義とナショナリズム、ヘイトと排除が広がる現代を表現している。どこかで近代の文化は折り返し、復古的な権力志向の時代へと逆戻りしてしまった。独裁と専制と差別と排除と暴力と戦争が公然と肯定される社会になりつつある。
 そこにおそらく、この二つの映画の絶望の意味の違いがあるのだ。

 とは言え、この物語の中で中軸に描かれているのは社会問題では無く、レプリカントである主人公Kの姿を通じたアイデンティティの問題である。当初は自分というものを持たず、ただ従属するだけの存在であり、わずかに自分を取り戻す瞬間がホログラムとの会話の時間だけ、それも上司からの呼び出しがあれば即座に中断するという、いわば「社畜」であるのだが、それがストーリーの展開とともに変化していく。
 つまりこの物語はKの「自分探し」の物語なのである。しかし、Kが探そうとする本物の自分とは何なのだろうか。ひとりの人間が本当に純粋なオリジナルであることなど、実はあり得ない。「人間」が「生物学的なヒト」と区別されるのは社会と文化の中に生まれ育つからであって、それはつまりあらゆることを真似て(コピーして)自分が形成されると言うことなのである。ちなみに「まなぶ」という言葉は「まねる」を語源としていると言う。
 重要なことは、そのコピーされた巨大な基盤の上に、ほんの少しでもオリジナルな何かを加えられるのかどうかということでしかない。(補足3)そして、おそらくこの映画は主人公がそれを獲得するかどうかということを描こうとしているのだろう。

 ただ、最後にもうひとつの疑問は残る。作品世界の人々はそれぞれの属する集団によって異なった正義を持ち、そのことによって人間性を喪失していく。一方でKはアイデンティティを求めて自己に拘泥することを通じて、逆に「人間的」になっていく。しかしだからと言って単純に自分に拘泥することが正解だと言ってよいのだろうか? それは結局は社会との関係性と自分を遮断し、自分だけの価値観に引きこもることにしかならないのではないのか。それがもう一度、この映画のラストシーンへの疑問としてよみがえってくるのだ。(補足4)


★補足★

*以下は完全にネタバレになります。

補足1
 デッカードと娘(ステリン)が会うことは、作品世界内においては非常に危険なことだ。デッカード自らが娘を守るために自分を消したと述べている。この作品で描かれるように体制側もウォレス側も非常に強力な監視・情報収集能力を持っている以上、ステリンの素性は早晩知られてしまうだろう。ステリンが本当に免疫不全である場合、彼女をどこかに逃がすことはほとんど不可能で、いずれにせよ本作のラストシーンから推測する限り、彼女が殺されることはほぼ確定的である。
 それが分かっているはずなのに、Kもデッカードもステリンの研究所を訪問するのは、どうも納得できない。もちろん、別に隠された設定があるのかもしれないが。
 ぼくから見ると、これはオリジナルの劇場公開版の逃亡するラストシーンと同じように不必要なシーンだったのではないかと思える。

補足2
 ホログラフィと呼ばれるジョイのこと。
 それではなぜジョイが一番ヒューマニスティックなのか? ひとつには彼女が献身的であるという点が挙げられるが、実はこの映画の登場人物は皆献身的である。それぞれが自分の立場に忠実で死をも恐れない。違っているのは、ジョイの「正義」がKという個人に対する「愛」という個人的な立場性であることだけだ。本記事内で指摘しているように、それは社会や組織的な責任を持つ立場と比べた場合にどういう意味を持つのか、ということは問題になると思う。

補足3
 Kは上司に隠しながら、反逆とも言えるような形で本物の自分を探し出すのだが、結局はそれも嘘で、偽物であることを知る。空虚な自分から、一度は実態を得て(と実感を得て)、しかし更に大きな空虚に突き落とされる。
 一方のジョイは初めから何も無い空虚の中から、いつの間にか「愛」と「献身」という中身を得る。ただし、それはあくまでプログラミング上の、いわば幻想上の、かつステロタイプな「人間」風の反応であるだけかもしれない。しかし、他者の内部に入り込むことが出来ない以上、外面的な対応こそが真の実体であると見ざるを得ない。ジョイは何らかの「オリジナルな何か」を獲得したのである。
 そしてKも、最後に誰の命令でも無くデッカードを救い出し、娘と会わせるというヒューマニスティックな行動をとることで「オリジナルな何か」を得たことを証明する。ラストシーンの必要性は、そのことを示すためであると言えるかもしれない。

補足4
 Kは社会や組織などの都合や、これから先の展開などを考えずに、デッカードを娘と引き合わせた。そして自分自身はそのまま死んでいくことで、「やりきった俺」として自己完結してしまう。Kにとってはハッピーエンドかもしれないが、彼の選択が本当に正しかったかどうかは、ぼくには大きな疑問である。

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2016年8月 8日 (月)

『シン・ゴジラ』を観て

 庵野秀明総監督の『シン・ゴジラ』を観た。ネット上での賛否は分かれているが、秀作であることは間違いない。ぼくはゴジラ映画を全部見たわけでは無いし、庵野作品はテレビ放映版の『エヴァンゲリオン』と劇場版の『シト新生』『Air/まごころを、君に』を観たくらいで(たぶん『ナディア』も最後まで観ていなかったと思う)、映画評論家的に分析することはできないが、ゴジラ映画としては1954年の第一作に次ぐ出来では無いかと、個人的には思う。もっともマイベスト映画かと問われればちょっと違うのだけれど。
 以下に感想を書くが、いわゆる「ネタバレ」になるので、未見の人は読まない方が良い。正直言ってたいしてネタバレ的な要素の無い映画だと思うのだが、映画パンフレットには「ネタバレするから映画を観てから読んで」とわざわざ封印までしてあるので、まあここは製作者の意図を尊重したい。

 

  *  *  *

 

 さて、分かりづらいという感想もあるようだが、別に分かりづらい映画では無い。偽科学的な設定の部分に難解な点もあるが、そこは仕方ないところだろう。むしろドキュメンタリータッチで、複雑な転換も無く、ストーリー自体はかなり単純だ。
 もちろん、この映画をどう解釈するのかということになれば、難しいかもしれない。単純なドキュメンタリータッチということは、主観がどこにあるのか隠されているとも言えるので、映画の真の意図を探るとなると、考えて解釈しなくてはならなくなる。そして優れた映画がどれもそうであるように、観る者の視点、立場によって読み方の幅は大きくなるものだ。ここでは、ぼくの観点から読み取ったことを書いていきたい。

 

 まず、この映画を「ゴジラ映画」という歴史性から評価するなら、ゴジラの位置づけを第一作から忠実に、しかも現代映画として耐えうるように解釈しているところが良いと思う。
 今回のゴジラは核廃棄物を食べたことによって体質変化を起こし、放射能をまき散らす巨大な怪物になったとされているが、それは第一作の水爆実験によって目覚めて人類を襲ったという設定をなぞっているし、「ゴジラ」という名称が大島(第一作では大戸島)の伝説に基づくという点まで忠実に再現している。当然と言うべきかも知れないが「反核」というゴジラ映画に通底しているテーマも真正直に引き継いでいるが、この点は後でもう一度検討してみよう。
 さらに、怪獣映画の真価は、怪獣という存在をどういうものとして解釈し、またそれをどのように具現化するかにかかっている。『シン・ゴジラ』はその点を真摯に追求していて、単なる旧作の「なぞり」で終わっているわけではない。
 今回のゴジラには「外部からのエネルギーに頼らず環境に適応して変態し続ける完全生物」という解釈が加えられた。自己完結した完全生物という位置づけは不気味だ。一般的に地球上の生命体は地球環境=生態系によって初めて存立しうる。生態系は複雑な相互連関によって成り立っているから、そのうちの一つのピースが欠けるだけで、生態系全体が崩壊する危険さえある。だからエコロジストは、我々の生活に一見関係ないように見える生物種であっても、それを必死で守りぬこうとする。ヒトもまた生態系の一環に組み込まれているのであり、生態系の小さなバランスの揺らぎのために絶滅してしまうかも知れないからだ。
 ところが自己完結した完全生物には、もはや生態系は必要ない。全てを破壊し尽くしても自らの生存に何も問題ない。そこでまたその環境に適応すれば良いのだから。今回のゴジラの不気味さはそうした意味で、他者と完全に断絶した存在が出現したら、それ以外の存在は全て滅ぼされてしまう危険性があるという寓意にある。ここでイスラム原理主義を引き合いに出すのが妥当かどうかは分からないが、そうした自己完結的な勢力が21世紀に出現していることもまた事実である。
 しかし、完全生物のゴジラも、実は自らの完全性を喜んでいるわけでは無いらしい。ゴジラは地上に上がるとエラから激しく出血し、巨大化すると体中に赤い傷のような線が現れる。苦痛に暴れながら、彼(彼女)は孤独に、ただ自分への攻撃に反撃するだけのために生き続けるのである。だが画面からはあまりにも巨大かつ強大で意思疎通不能の化け物に、同情できるような要素はほとんど感じられない。それは彼(彼女)がまさに神だからなのかもしれないし、(現代人があえて目をそらす)完全なる絶望の具現化だからかもしれない。
 映像は素晴らしい。カメラワークは徹底して人間の視点である。実際にそこでそれが起きた時、人間の目、もしくは報道のカメラから見えるであろう画像にこだわって作られている。ゴジラが熱線で東京のビル群を破壊しまくる映像も美しい(ちなみに東京大空襲を経験したぼくの母は、空襲の赤い炎に照らされた真っ白なB29爆撃機がとてもきれいだったと言っている)。
 ゴジラの造形も気持ち悪く、恐ろしい。まぶたの無い目、無意味に乱れて生える鋭い歯。人間から一番遠いところにいる存在であることをよく表現していると思う。

 

 もう一つ、『シン・ゴジラ』を評価するなら、これが意識的に反ハリウッド映画として作られている点だろう。良く知られたことであるが、現代のアメリカ映画は完全にパターンがセオリー化しており、シナリオの展開は分数まで決められていると言う。このために、現在の米国のエンターテインメント映画は、何を見ても同じような感じがしてしまう。
 これに対して庵野監督は意図的にハリウッド的要素を退けていると思われる。この映画にはロマンスもエロチシズムもスーパーヒーローも無い。監督の反骨精神と気概を感じる。しかも怪獣映画としては驚異的なことに、毒薬を経口投与して退治するという前代未聞のシナリオになっている。地味と言うにも地味すぎる。あの怪獣のすさまじい破壊シーンに対してこの終幕なのだ。もちろんここには、巨大な力に対する非力な者たちの知恵と団結による勝利という意味が込められているのだろうけれど、ハリウッド的なものに対するアンチテーゼだと言っても良いだろう。
 冒頭でこの映画がドキュメンタリータッチだと述べたが、それはロマンス、エロ、スーパーヒーロー要素抜きにエンタテインメント映画を成立させる手法でもある。その代わりになっているのが膨大な群像劇という形式だ。誰かにじっくり焦点を当てて描くことが出来ないほど、大量の登場人物が出てくる。何人もの主役級の役者を数秒ずつ使うという大変贅沢な作りだ。話が逸れるがこれこそがゴジラの力なのだろう。『トラ・トラ・トラ』とか『史上最大の作戦』とか、昔で言うオールスター映画の味がする。
 さて、それではいったいどのようなドキュメンタリーなのかと言えば、これは政治映画と言って良いだろう。政治主張映画では無い。ようするに政治現場のフェイク・ドキュメンタリーなのだ。これはどういう意味か。つまり庵野監督のイメージするリアリティがここにあると言うことであろう。本当に現実に怪獣が東京に出現したら何が起こるのか。誰がどういう対応をするのか。それはおそらく政府、行政が対応するのだろう。そしてそこにはひどい混乱が起こるだろう。それをシミュレーションして映像化する。確かにリアリティだ。
 これを精緻に描こうとすれば、政府は現実には巨大なシステムだから、大きな群像劇にならざるを得ない。もしこの映画をこれ以上広げたら、収拾がつかなくなって訳がわからなくなっていただろう。結果的に(か、意図的にか)出てくるのは怪獣の破壊シーンと行政府内部の会議室・執務室シーンだけだと言って良い映画になった。
 いくつか指摘できる点がある。最大の注目点はここには悪人が出て来ないということだ。愚鈍な者や自己保身的な者はいるが、エンタメ映画によくあるストーリーを左右するような典型的な悪漢は存在しない。人々はただただゴジラという絶望的な災害に翻弄されるだけである。悪人がいないということは、逆説的に正義の味方もいないし正義も無いということだ。さらに言えば正解も無い。最終的に主人公の青年政治家(矢口蘭堂=内閣官房副長官)グループの作戦がとりあえず成功し、ゴジラは凍りついて活動を止めるのだが、果たして死までも超越しているとさえ言われる完全生命体の動きを最終的に封殺したと言えるのか。氷は溶けないのか? 氷が溶けたらまたゴジラは動き出すのではないのか。その時は再び米軍主導の核攻撃作戦が発動されるのではないのか…。観客にはそんな疑問が残っただろう。このゴジラ退治法は必ずしも正解ではないかも知れないのだ。もしかしたら、これは福島原発事故で汚染水対策として決定された凍土壁の比喩なのかも知れない。周知の通り、初めから疑問視されていたように、福島原発の凍土壁はどこまで行ってもうまくいかず、ついに全てを凍結させることは不可能と宣言されるまでになってしまった。

 

 繰り返しになるが、庵野監督がこの『シン・ゴジラ』を政府内部を描く映画として作ったのは、彼のリアリズムに従ってのことだろう。普通のエンタメ映画のように(それは第一作もそうなのだが)、一般庶民であるひとりの人物が、突然奇跡のような解決策を見つけ出して敵をやっつけるというストーリーはあまりにも荒唐無稽である。だから庵野は政治映画としてゴジラを描いたのだが、それはまた当然ながら「上から」の視点の映画になった。しかしそのことは同時にこの映画自体の「危険性」を生むことにもなっている。
 ぼくはこの政府内部を舞台とする作り方が、庵野のある種の保守性というか、複雑な思い(コンプレックス)に大きく規定されていると思う。複雑な思いというのは、庵野が師とも言える『風の谷のナウシカ』の宮崎駿監督に対する敬意と反発、つまり絶対的権力に対する憧憬と嫌悪のない交ぜの意識を持ち続けているのではないのかと言うことだ。庵野にとって権力は桎梏ではないのだろう。別の言い方をすれば、彼は時として場違いな楽天性をさらけ出す。政府と政治家は基本的に国民、国家のために仕事をする、という教科書的な観念が、リアリズムで描くなら政治は善意として行われるはずだという視点を生んでいるのである。
 この映画において議会や法律は有事の際の桎梏になるという描かれ方をされている。事実、国会や野党政治家、各省庁内部は描かれない。ぼくが気になったのは、ほんの数秒だが、国会前にデモ隊が押し寄せているようなカットがちらりと出てくるところだ。どうやらゴジラを退治しろと政府に要求しているように見える。映像自体はおそらく反原発か反安保法のデモのニュースの流用だろうが、そもそも大災害の最中にこのようなデモが起きるとは考えづらい。これは明らかに災害対応の足を引っぱる行為であろうし、「愚かな民衆」というイメージを強調するカットとしか思えない。不用意というか不自然なカットである。もう少し言えば、反原発や反安保法運動が、政府が強行しようとする政策を止めようとするものであったのに対して、ゴジラ撃退要求は「何もしない政府」に軍事力発動(?)を求めるもので、そのベクトルは全く逆である。あえて言えば、前者が左派的であるとすれば、後者は右派的だ。
 この映画では、政府は国民、国家のために最善を尽くす。それに水を差す者、理解しない者は愚かである。もちろん政府内部にも賢明な者とそうでない者がいて確執があるが、賢明な指導者は反対があっても自分を押し通し、事態を最良の方向に向かわせなくてはならない。残念ではあるが、こうした描き方、視点を穿っていくと、行き着く先には民主主義の否定、独裁者の肯定という思想的な危険性が見えたりもする。好意的に見るならば、こうした上からのリアリズムは、庵野の右翼的感性と言うよりも、健全な(もしくは凡庸な)政治思想の表れと言うべきなのかもしれないが。

 

 しかしもちろん庵野のようなリアリズムとはまた違ったリアリズムもあるに違いない。上からの視点である庵野に対して、例えば『パトレイバー』の押井守監督であればどんな映画を撮るだろうと考えてしまう。押井であれば下から、もしくは外れ者の視点から、非ハリウッド的なリアリズム映画を撮ることも出来るのではないだろうか。今回のシナリオでは謎のキーマンとして描かれる牧教授という老人がいる。彼は実際には登場せず、故岡本喜八監督の肖像写真としてのみ表示されるのだが、この牧教授がなぜゴジラの出現ポイントで行方不明になったのか、そして彼の残した遺書の意味は何なのか、この点は最後まで明確に説明されない。一方主人公は、癖のありそうなフリージャーナリストに依頼して秘密裏に牧の動向を探らせる。このエピソードは全体から見るとわずか2カットしかなく、しかも全体の流れから言って唐突であり、余り必然性を感じさせない。もちろん庵野には意図があってこのエピソードを挿入しているのだろうが、これが押井ならここを一つの物語の軸として「下から」見るリアリズムを構築することが出来たのではと思ったりする。もちろんそのように、消えた老人を大災害に破壊されつつある大都会の中で追うというストーリーになっていたら、映画はもっと難解になっていただろうが。

 

 『シン・ゴジラ』は政治主張と言うより、庵野監督なりのリアリズムとして描かれたというのがぼくの見解だが、しかしそれでもなお、やはりこの映画の中に政治的主張や政治思想が存在しないわけでは無い。
 誰が見ても明らかなのは、前述したとおり「反核」主義である。それは第一作のテーマであり、基本的にゴジラ映画のDNAとして引き継がれてきたものだ。主人公は米国主導の核攻撃作戦を食い止めるべく最後まで粘り続ける。なお、付け加えれば、ギャレス・エドワーズ監督版のゴジラも含めて、2010年代のゴジラ映画はどうしても3.11のメタファーにならざるを得ない。当然そこには放射能汚染問題も入り込んでくる。第一作が戦争と原爆のリアリティに裏打ちされていたとすれば、現代のゴジラは東日本大震災と原発事故のリアリティの上に存在するのである。
 ここまではある意味で当然だとして、そこからもう少し踏み込めば、この映画の国際感覚は、反米とは言わないまでも米国一極主義外交への批判であり、中露への不信感であり、親欧的意識である。微笑ましい(?)のは、と言いながら結局最後には米国民は日本人を信頼し協力してくれるはずだという楽観主義である。現実はそんなに甘いものでは無いのだが。トランプ旋風の中で作られていればもっと違っていただろうか。劇中で主人公は旧日本軍の楽観主義的思想が日本の敗戦を招いたと批判しているが、庵野監督の楽観もなかなかのものだ。
 本作の中で自衛隊は無力ではあるが勇敢で忠実で献身的な存在として描かれている。そのことは3.11に象徴される災害救助隊としての自衛隊のイメージに負うところが大きいかも知れない。この映画においては当然ではあるが、海外派兵を行う軍隊としての自衛隊ではなく、本来の「自衛」隊として描かれている。健全ではある。
 自衛隊の作戦失敗を受け、日米安保に基づく米軍B2爆撃機によるゴジラ攻撃が行われるが、これも瞬間的には効果を発揮するものの即座に全滅させられる。米国はそれ以上の反撃を止めてあっさりと核攻撃戦略へと切り替えてしまう。米国がなぜゴジラへの核攻撃にこだわるのかと言えば、無限に変身を続けるゴジラがいつ羽を生やして米国本土に飛来するかもしれないからだ。米本土において核を使うより遠く離れた日本で核を使う方が良いという判断である。中露も自分たちに都合の良いゴジラの国際管理を主張してくる。主要閣僚をいっぺんに失い、経済的にもどん底に落ち込んだ日本は、各国の意図に翻弄されるしかない。
 第一作のゴジラが不安の中にも、ともかくもゴジラという怪物を骨まで溶かして葬り去るという希望的ラストであったのに対し、『シン・ゴジラ』はスタイリッシュな都会的な人物と風景の背景にいつまでもゴジラが屹立し続ける文字通り冷たい終わり方をした。主人公もまた、「指導者が失われても代わりはいる」、「犠牲者を出した責任を取って辞める」と言いながら、しかし結局のところ実際には政治家を辞めるつもりはないし、おそらく何かを変えるよりも、何かを守り継続することを自らの使命と考える指導者になっていくのだろう。ゴジラ=核の恐怖が何度も繰り返されるだろうという思想的な警告を発した第一作のラストとは大きく違う。戦争の悲劇を主体的な反省として受け止めた第一作と、繁栄を外部の力でむりやり奪われたと被害者意識で考える『シン・ゴジラ』のレベルの違いであろう。いずれにせよ、庵野が意図しているかどうかはともかく、こうした部分では庵野のリアリティは確かに21世紀の日本を表現してはいる。

 

 『シン・ゴジラ』の感想を述べてきたが、それでも最後まで解釈できない「謎」もある。前述した牧教授の足跡もそのひとつだ。おそらく彼はゴジラの上陸を知っていたはずだ。彼はなぜそれを知っていたのか。彼は何をしようとしたのか。そもそもなぜゴジラは東京に上陸したのか。これは最大の謎である。生物は基本的に保守的である。自己の生存と種の存続に対する危険が無い限り、自分の生存環境を変えることはしない。同じ場所で同じ生活を続ける、それが生物の原則だ。だからシーラカンスのような生物もいる。もちろん環境が変化したり、生存競争に敗れそうになったりした場合には、新しい生活環境へ移動したり自らを進化させたりする。しかし、完全生物であるゴジラには生物的危機が存在しない。餌をとる必要さえない。逆説的だが完全生物はすでに生物ではない。有機的な永久機関とも言うべきものである。つまりゴジラには生息環境を変える必然も、そもそも移動・行動する必然さえない。そのゴジラがなぜ陸上にやって来なければならないのか。これは物語の根幹に関わる大きな謎なのだ。

 

 最後に牧教授に関わる別の小さな謎をひとつ。アメリカ現職大統領として初めて広島を訪問したオバマ大統領は折り鶴を折って原爆資料館に残していった。折り鶴は反核の象徴である。映画では、牧教授が残した幾何学的な図面を立体的に折り上げることによってその意味が明らかになるというシーンがある。牧教授の図面は折り紙だったのだろうか。「折る」という字と「祈る」という字はとてもよく似ている。そのことを理解できるのは日本人だけかも知れないが。

 

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